梅光学院高等学校同窓会
2016年10月27日

戦中戦後の思い出(後編)

前編より続く

 

このような小学校時代を過ごしたので、梅光女学院に入学したときは天にも昇る心地がした。体罰はなく、暖かい服やコートを着ることもできたし、梅光の校舎は山の上にあって、どれも瀟洒で美しく、花の咲き乱れる校庭は、夢のような毎日を予測させてくれたからだ。しかし、楽しいことばかりではなかった。
梅光女学院での一年生の日々は終戦の前の年に当たり、連日、警戒警報と空襲警報が鳴り響いて、まともに授業が受けられる日はしだいに少なくなっていった。関門海峡に機雷を投下するアメリカの艦載機や爆撃機の来襲が度重なってきたからだ。

 

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hondo-doin14そして、やがて私たちにも学徒動員の命令がくだった。教室は軍服を縫う工場と化し、一年生だったので、私たちは軍服のボタン付けをすることになった。二、三年上の上級生たちは、毎朝セーラー服にモンペ、その上にゲートルを巻いて、前田や長府にあった工場に通って、旋盤工として働いた。

また、軍服縫いをしない日々、私たちは武久の海岸で松脂取りをさせられた。松の木の幹にY字型の傷をつけ、缶詰のカラをくくりつけて、そのなかに松脂がたまるようにするのだ。こうして集めた松脂を精製して飛行機を飛ばすとのことだった。私は連日こういう作業をしながら、こんな松脂で本当にあの大きな飛行機を飛ばすことができるのだろうかと、子供心に疑問を抱いたことを思い出す。

 

しかし、こういう生活を根底から突き崩す日が到来した。一九四五年(昭和二十年)六月二十九日と七月二日の二度にわたる下関大空襲である。最初の空襲の日、私の家は山の高台にあったので、街中が一気に燃え上がるさまが見えた。聞くところによると、最初に石油を撒いてから焼夷弾を落としたとのことで、一瞬にして街中が火の海になった。それは、身震いするほど恐ろしい凄絶な眺めであると同時に、冒涜的なことながらこの上なく美しい景色でもあった。最初の空襲で中心街の大半が焼け、二回目の空襲で残りの大部分が焼けた。二度目のときは私たちの頭上にも焼夷弾が降り注ぎ、私の家も梅光もすべて灰燼に帰した。このとき、私たち一家も家を捨てて山のなかに避難しなければならなくなった。以前からそれぞれの家には防空壕が作られていたが、私たちが庭先に掘られた横穴の防空壕に避難していたら、おそらく蒸し焼きになったことだろう。こうして山のくぼみに身をひそめて夜明けを待ったが、ずっしりと重い爆音を響かせて頭上を飛ぶグラマン爆撃機の恐怖は一生忘れられないかもしれない。

 

chugoku_06_004<入江町、細江町あたり>(撮影者:上垣内 茂夫氏)
手前の道をたどると丸山町、右上方の丘は日和山で、光明寺の屋根が見える。
(総務省ホームページより)

 

chugoku_06_001<(昭和20年)西細江町あたり> (撮影者:上垣内 茂夫氏)
海峡沿いの建物は、右が山陽ホテル、左が下関警察署と旧山陽百貨店。
対岸は門司。(総務省ホームページより)

 

私たちは住む家を失ったので福岡県の田舎にあった祖母の家で二か月を過ごしたが、終戦になって人々が廃墟から立ち上がる情勢になったのに合わせて、焼け残った地域の貸家を探して下関に戻ることになった。梅光の二年生の秋のことだ。梅光も一棟を残して全焼したため、授業は全然行なわれていなかったが、しだいに付近のカトリック教会やメソジスト教会を借りて、少しずつ授業が行なわれるようになった。樽見先生の「生物」や、べらんめえ口調が出てくる村上省三先生の「社会」の授業などを覚えている。

 

%e6%9d%91%e4%b8%8a%e7%9c%81%e4%b8%89村上省三先生

 

だが、その年か翌年あたりから「作業」が始まった。朝、学校に行って礼拝が終わると、すぐ、来る日も来る日も作業が続いた。どちらからどちらへ運んだのか、よく覚えていないが、要するに、丸山町の梅光から大畠の敷地まで、あるいはその逆の行程で、廃材の材木運びをするのである。四~五メートルの柱なら二人で、それ以上に長いものは三人で運び、あるときには釘抜きを使って、廃材に刺さった釘を抜く。とくに難しいのは、三角形をした屋根の合掌作りを運ぶときで、三角形の数ヶ所に生徒が配置され、男性の先生が付き添って注意を与えながら、坂を登ったり下ったりして、大畠まで運んだ。

 

こうした努力のおかげか、やがて大畠の兵舎跡にバラックの校舎ができたが、窓はあってもガラスが入っていない吹きさらしの校舎で、冬はコートを着ていてもまだ寒かった覚えがある。丸山町の梅光の敷地にバラックの校舎ができたのは、女学校の四年生か五年生のときだったような気がする。このときはまだ旧制だったので、五年で卒業してもよく、新しく出来た高等学校の三年度に編入してもよかった。私は進学のほうを選んだ。このときになってようやく、女性も大学に進学することができるようになり、そのためには、高等学校を卒業する必要があったからだ。

 

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高等学校時代            戦後の授業風景(丸山校舎)

 

本格的な授業が受けられるようになったのは、女学校最後の年と高校三年になってからだった。いちばん印象に残っているのは、マッケンジー先生の英語の授業で、語り直しのテキストながら、シェイクスピアの『十二夜』を読んだ。一章ずつテキストを読んで、先生が本文の説明をなさったあと、巻末にあった Question and Answer の練習問題をする だけだが、これが大変おもしろく、私はシェイクスピアの楽しさに目を開かせられた。それで、図書館に通って坪内逍遥訳のシェイクスピア全集を読み通した。

 

%e3%83%9e%e3%83%83%e3%82%b1%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%83%bcマッケンジー先生

 

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ジョーンズ先生とマッケンジー先生             着物姿のジョーンズ先生

 

広津信二郎先生の「国語」の授業も興味深く、「ロダンの遺言」の授業のさまは今でもときどき思い出す。日高先生の「数学」も楽しく、三角や微分積分の問題を解きながら、本当に知識を学んでいるという気がしたものだ。しかし、後で伺ったところによると、戦前は女性に微分積分は要らないということで、戦後初めて女子高校のカリキュラムにも微分積分が取り入れられたということだった。

 

baiko1952-1広津信二郎先生

 

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1947年~48年(昭和22年~23年)当時の丸山校舎の風景

 

語りたいことはまだまだ沢山あるが、私の梅光時代は戦争の思い出と切り離して考えることはできない。つらく苦しいことも多かったが、楽しく、胸の踊るようなこともあった。そして、私の人格形成には梅光の力が大きく作用したと言えるかもしれない。戦中戦後の苦しい時代は長く、敗戦の思いはつらかったが、戦争が終わって幸いだったことは山ほどある。女性も大学で学ぶことが許され、参政権も与えられた。テレビという便利なものが出てきたのは、私が二十代に入ってからだ。航空機の発達で世界の距離が縮まり、コンピューターなどが世界を制御する時代が来ようとは、あの頃夢にも思わなかった。時は移り、環境は変わる。しかし、人の心は変わるのか、変わらないのか、それをしきりに考えるこの頃である。

高02 大社淑子

※「参考写真」はインターネット検索により借用しました。

 

 


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大社淑子氏プロフィール

日本の英文学者、早稲田大学名誉教授。

1931年福岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程中退。早大法学部教授を経て、2002年定年後名誉教授に就任。

英文学を専攻し、現代の英国女性作家を研究、翻訳。特に米国黒人女性作家のトニ・モリスンの翻訳で知られるが、アイヴィ・コンプトン=バーネットの研究書も出している。

 

 

下関今昔物語, 梅光の思い出

2016年10月26日

戦中戦後の思い出(前編)

s6-20私は昭和六年(一九三一年)九月二十五日に生まれた。満州事変が勃発したのが 一九三一年九月十八日だから、私の生涯は十五年戦争と足並みを揃えて始まったことになる。
もう大東亜戦争=第二次世界大戦を体験した世代が数少なくなっているので、うろ覚えながら私の若かった日々の思い出を記すことにも、一片の意義はあるかもしれない。
私が生まれたのは大里、つまり現在の北九州市だが、その後父の勤務先の都合で下関に引っ越し、初等教育は名池小学校で、中等教育は梅光女学院で受けた。当時、小学校は国民学校と呼ばれ、梅光は女学校だった。女性が入学できる大学はなく、女子教育の最高は専門学校止まりで、もちろん女性に選挙権はなかった。だから、当時の女性たちがどんなに深い挫折感に悩まされていたかは、容易に想像できよう。

 

tokakansei3国民学校時代は、日本が昭和十二年に起こったシナ事変を経て、昭和十六年には大東亜戦争に突入するという大変な時代で、六年間を通して色濃く戦時色に染まっていた。同時に、私にとってはいろんな意味で暗黒時代でもあった。
明るい電灯に照らされ、色とりどりの華やかなネオンに彩どられた美しい夜の街の印象は、ごく幼かった日々の思い出にすぎない。文字を覚えて、沢山の本を読みたくなった時期は、灯火管制の下での暗く、陰気で、不自由な夜が延々と続く、息がつまりそうな日々の連鎖だった。電灯はすべて黒い布で覆うか、傘をかぶせなければならず、真下にほんのりと白い円を描くだけ。それでも、一筋のかすかな光が外に洩れようものなら、たえず見回りを続けている町内会の防空対策委員の厳しい叱責と「非国民」のレッテルを覚悟しなければならない結果となる。

 

imagesuw97afj2和菓子やケーキの類が店頭から姿を消したのは、国民学校一~二年生の頃ではなかったかと思う。砂糖はもちろん統制で手に入りがたく、この頃から食料をはじめほとんどすべてのものが配給制になった。配給制になっていないものはほとんどが、長い行列をして買わねばならなかった。鮭の切り身とか他の食品を売っていると聞くと、すぐ走り出て行列に並んだものだが、それも一~二時間立ちんぼしたあとで、もう品物がなくなりました、と追い返されることはたびたびあった。そういうわけで、街を歩いていて、行列を見ると、売っているものが帯占めのような不用品であろうと、エプロンであろうと、何でも買わなければと、行列に並ぶ癖がついた。学用品もその例に洩れず、勝手には買えなかった。鉛筆を買いたければ、いま使っている鉛筆が五センチ以下の短いもので、もうこれ以上書けないということを先生に認めてもらわねばならず、ノートの場合は最後のページまで書きつぶされていることを先生に証明してもらわなければならなかった。

 

img_2しかし、物資以上に不足していたものは、もちろん食べものだった。お米は厳しく統制され、一日一人二合四勺がやがて二合一勺となり、お粥や雑炊にして食べのべるのが普通だった。闇市場では、高額の金を出せば多少は買えたものの、見つかれば刑務所行き覚悟しなければならない。買い出しに行っても同じこと、家に帰りつくまで警察や軍隊に捕まるのではないかと戦々兢々の有様だった。それも、最初のうちは近くの農家で母の絹の着物などを差し出すとお米が手に入ったが、のちになると、一枚の晴れ着を出しても大根二、三本しか買えなくなった。だから、少しの土地があればみんなが南瓜や胡瓜を植え、実が食べられるときは大変な幸せ、ふだんは葉や茎まで食べた。しかし、どうにも我慢できなかったものに海藻麺がある。これは、戦争の終わり近く食料事情が極端に厳しくなった折に配給されたもので、昆布やワカメではなく、浜辺に打ち上げられた海藻や藻を麺の形に作ったものだ。茶色のズルズル、グミグミしたもので、どんなに工夫しても味がつかず、食べると喉につまって嘔吐したくなる。私はどうしてもこれを食べることができず、母からこれ以上ないほど叱責されたが、海藻麺が食卓にのぼったときは絶食することにした。

 

しかし、食料不足よりつらいことが、いくつかあった。冬、どんなに寒いときでも三枚以上着てはならず、外套などは着ることが許されなかった。つまり、スリップにシャツ一枚、その上にセーラー服一枚で冬を過ごさねばならなかったのだ。靴下一枚の足はいつも凍えており、歯の根はいつもガチガチ鳴っていた。

115それより腹立たしく屈辱的だったのは、寒稽古と称して、時折上半身は裸で、裸足、黒い体操用のブルマーだけのひどい姿で、下関の街を走らされたことだ。寒くて凍えて痛くなった足に、道路の上の砂利や小石が痛く、つらいのと恥ずかしいのとで、文字通り苦行をさせられた感がある。私はどういうわけか晩稲で、六年生になってもペッタンコの胸をしていたので子供に近かったが、同級生や上級生の半数以上はふくらみかけた胸を剥き出しにして衆人環視のなかを走らねばならず、私以上に屈辱感を覚えたにちがいない。

 

それに劣らず、私の初等教育を暗くしていたのは、体罰だった。日本の軍隊がたえざる体罰で成り立っていたためか、それが学園にも持ちこまれ、男性教師のみならず女の先生までが生徒にビンタを食らわせるので、生きた心地はしなかった。もちろん半数近くの先生方は、絶対に体罰は加えなかったように思う。しかし、私たちのクラスではなかったが、ある若くて、いかつい男性教師が竹刀で男子生徒をお仕置きしたとか、柱にくくりつけて殴ったとかいう話を聞くと、背筋が寒くなった。一年から六年までを通じて、一度も体罰を受けなかった生徒は、私を含め一クラスに数人しかいなかったような気がする。

 

p0884また「教練」という授業があって、陸軍の士官が先生になって、薙刀の訓練や、ルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石のポスターにボールを投げつける練習などをさせられた。私はそのポスターの絵を描かされたが、「教練」は大嫌いだった。

だから、勉強は好きで成績はよかったものの、上のような事情で、私は学校に行くのが嫌で嫌で、休みの日が待遠しくてならなかった。しかし、高学年に近くなると、警戒警報と空襲警報の繰り返しが多くなってきた。警戒警報は一連の連続的サイレンだが、空襲警報は断続的に不気味に鳴り響き、いつも恐怖の戦慄を覚えさせたものだ。学校では、警戒警報が鳴ると、授業を止めて、生徒は急いで家に帰り、警報が解除になると、また学校に戻ることになっていた。だから、試験勉強などはしたことがない。元来怠け者で、あまり試験勉強はしないほうだったが、準備不足であっても警戒警報を当てにして心安らかに登校すると、なんとか予想通りになるのだった。

 

後編に続く

 

高02 大社淑子

※写真はインターネットより借用しました

下関今昔物語, 梅光の思い出

2016年02月01日

服部章蔵と「光の子」

皆様、新しい年をお元気にお迎えのこととお慶び申し上げます。

 

今から100年前の1916年(大正5年)1月30日、梅光の前身校の一つである光城女学院の創始者、服部章蔵が亡くなりました。つまり、今年は服部章蔵没後100年にあたります。
今回は皆様に服部章蔵についてご紹介し、あわせて梅光のスクールモットーである「光の子…」のお話を致しましょう。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA服部章蔵

 

梅光学院の校章にスクールモットー「Ut filii lucis ambulate」の文字を採用したのは1964年(昭和39年)、短大創設の時です。採用したのが誰かということは、記録上に見つからないため判りませんが、当時の院長であり短大学長も兼ねておられた広津信二郎とその周囲に居られた方たちがこの文言を選んだのは間違いありません。

 

ロゴ3Ut filii lucis ambulate

 

この語の出典は新約聖書エフェソ人への手紙第5章ですが、宣教師から与えられた言葉であるとは考えにくいところがあります。なぜなら、「Ut filii lucis ambulate」の前にある言葉は「ratis enim aliquando tenebrae nunc autem lux in Domino」で、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」(口語訳聖書による)だからです。
明治という時代が外発的に揺れ動かされて変革を迫られた時代であるからといっても、宣教師たちがもし、いわゆる〝上から目線〟で「今までの日本は闇だったから、これからは自分たちの言うことを聞け」と言ったとして、それを無条件に受け入れることができるでしょうか? 歴史と伝統のある日本で、そう簡単に以前のすべてを否定することはできないはずです。
「Ut filii lucis ambulate」は、キリスト教に出会う以前の自己を「やみ」と認識できた人から生れた内発的な言葉でなければ、校是としての価値はありません。

 

その人物として、最も可能性があるのは服部章蔵です。
『服部章蔵の生涯:明治期のプロテスタント史を支えたひとりの伝道者』(日本基督教団山口教会.1998,265p)の自伝部分に、以下の記述があります。

 

「章蔵の性たる傲邁不遜、少時より童蒙と争闘するを好み常に腰に帯る所の木刀を以て戦ふ。漸く長ずるに及び、乃父より授かる所の鈍刀を帯び戦に臨み、急迫する時は抜刀以て童蒙の敵軍に突貫し、或る時は一童の臂を斬りしことあり。或は童蒙の隊を率いて寺院を襲ひ、姦僧を捕縛し、之を河橋の足木に縛し、高札を其背に負はせ其罪をしらせり。/ 或は君主より下賜せられたる犬の首を斬り之を竹尖に貫き路傍に樹つる等、暴行至らざるなし。時人余を呼びて見懸に由らぬ悪る者大将哉と称したり。(中略)明治の世に至り、大刀廃止の禁令出るや常に鉄鞭を提げ東京市街を横行し身に觸るヽ者あれば直ちに之を鞭で争闘を始めたり。以上の如き粗暴の者たれば、其他人倫に逆ふこと枚挙に遑あらざるなり。又言ふに忍ばざるなり。内乱の際の如き、敵が乃父と従兄を捕へて幽囚し、斬に処せんとしを慷慨し、憤怒の情に堪へず、敵時一の敵将を銃殺し得たれば、其腹を割き、臓腑を引出し之を松樹の枝に懸け膽を脱て鍋に炊き、兵士に食を命ぜしことありき。」(同書 p.9)

 

この服部の行動のいくつかは、『吉敷村史』(三坂圭治編 / 復刻版.マツノ書店.1988,373p )にも同様の記述があるので確認できます。
1863年(文久3年)、服部哲次郎(後に名和緩と改名)が組織した宣徳隊の行動の中に、「同士相謀って邑主の愛犬を引出し、その首を刎ねて制札と共に圓正寺の門前に建てた。」「龍藏寺の法印と長樂寺の和尚とが、主家の扶持を食みつゝ僧侶にあるまじき不正の行ひあるを憎み、両僧を縛して一般の戒めとなさんとした」(同書p.148)
等です。

 

「京摂の間に横行連戦し、或は内乱に際し正党に與し、御楯隊に入り司令官となり、山田・品川等と共に雨雪の中に身を露らし、炎天下に身を焼き、或るは幕府の軍と安芸に戦い、或るは京都の潜伏連に加はり、斬奸に従軍し、佐久間象山を殺し、徳川氏の威権を落す事に勤むるの如き、枚挙に遑あらず。是の如く乱暴狼藉の生涯を送り、之に粗々鍛錬する所あるを以て、十七歳の時小隊の司令官となり、暫くして中隊司令官に転任し、之を率いて敵と屡戦を交へ、明治元年革命大戦争に至る。」(同書 p.1-2)

 

十代の服部章蔵は内乱の世を生き、1869年(明治2年)に21歳で上京し、開成校や慶應義塾で英語を学び、新しい世を生きようとします。その時、彼は維新以前の若い日の自分を次のように回顧しています。

 

「此の如き生涯を送るの際、毫も良心の責なかりしやと問ふ者あらん。予之に答へて後悔先に立たずの諺の如く常に良心の責を受け、切々悔悟を命ず。是故に何の法に由てか之を成すを得んと或は静座し、或は良知良能を求めたり。然と雖一も得る所なく、益々経書を研すれば愈々心切迫して、身の置く所を知らず。是故に一時の患を免れんが為に酒を置き豪飲酔倒して止むこと屡なりき。」(同書 p.9-10)

 

戦争による心的外傷という言葉が、今日ならあてはめられるでしょう。蛤御門の変では久坂玄瑞等と行動を共にし、多くの若者が斃れるのを目にし、さらに山口県内で何度も激戦を潜って生き延びた自分です。良心の呵責から逃れようと、四書五経などを読んでみても更に心が潰れるようで、飲酒に逃げていた。アルコール依存症に陥っていたかもしれません。これは自身が「やみ」であったことを認めた記述でもあります。そして、キリスト教に出会い、新栄教会のタムソンから洗礼を受けようとし、一度は試験に落ち、そこで回心を得ます。

 

「何者が予に勧めたりしや、毫も解すること能はざりしが、突然祈祷の念を生ず。即ち、妻と共に伏して祈を初めたるに、祈の中、我が心に向きて誰かありて、爾の落第は即ち斯の如く憤激し、人を怨むるの罪を犯す程信仰薄きに基くなりと曰へるが如き感動起り、覚へず「我が神よ、我が救主よ、我が此の大罪を許し給へ」と祈りたれば、心の怒は全く去り」(同書 p.17)

 

許されて洗礼を受けた時の感動は、

 

「予が廿九年の経歴は真に暗黒の生涯なりしと雖も、長くより求めて得ざりし平安の心は今日全く我が衷に住し、一点の浮雲だにあるを覚へず。」(同書 p.18)

 

というものでした。これこそ服部が「やみ」から「主にあって光」となった瞬間です。「光」に出会った回心体験は、後の赤間關光鹽英学校、光城女学院、また明星幼稚園という命名に読み取れます。すべて光と関係している名前になっています。

 

「爾曹ハ世の光なり山の上に建てられたる城は隱ることを得ず燈を燃して斗の下におく者なし燭臺に置で家に在すべての物を照らさん此の如く人々の前に爾曹の光を燿かせ然れば人々なんぢらの善行を見て天に在す爾曹の父を榮べし」(1887年明治訳 馬太傳5章)

 

馬太傳5章1887年明治訳 馬太傳5章

 

光鹽と光城の言葉はマタイによる福音書5章から採られています。
幕末動乱期の同胞相食む激烈な時代を通り抜けたひとりの人が、「光」に出会ったことに感謝して、その「光」を若い人たちに分け与えようとしました。
吉敷の郷校憲章館の優れた教育者であった曾祖父、祖父、父の血を受けて、東京で海軍兵学校の英語教官を務め、その教え子たちと長く交流があった服部です。その目指すところは、新しい良き日本の女性を育てることでした。

 

夜、灯を升の中に仕舞って、家の中を手探りで生活することはありません。家中を照らし、日々の生活の支えとなる存在であれ。また世にあっては四方のどこからでも見える山の上の城のように、周囲を照らし、人々から仰がれる存在であれ。その「光」とは「善行」です。
「光の子」とは、自ら善き行いを実行する意志と行動力を持った人のことです。日々、自己のあり方を問い続け、善き人であろうと努力し続ける人のことです。

 

1914年(大正3年)の下関梅光女学院の創立の時、服部章蔵は存命中ではありましたが、既に学校経営から退いていて、直接の関係はありませんでした。ちなみに梅香崎女学校のヘンリー・スタウトは既に死亡しています。
下関梅光女学院の実質の創立者であり初代理事長だったのは、光城女学院のジェームス・B・エーレス(1859-1940エアレスとも表記)です。彼の発想と決断と実行力がなかったら、梅光はこの世に生まれていません。服部章蔵と共に山口で働き、光城女学院を託されて長老派教会の出資校とし、梅香崎と合同の際の資金源を確保したのはエーレス、そしてビゲローでした。

 

ガートルード・サラ・ビゲロー(1860-1941)は、下関梅光女学院となったときに、光城女学院の校長から一介の教員となって廣津藤吉の下で働き、「光城並に梅光の校母」と呼ばれた女性です。

 

_05_ビゲロー画像ガートルード・サラ・ビゲロー

 

校母ビゲローとはどんな人だったのでしょう。

 

「性質、素行、功績、先生は温厚篤實にして寡言、日本婦人的の嗜は自然に長い在留中に薫染し、クリスチャンレデーの品格を一段と立派ならしめ、女子敎育家としてはた宗敎家として申分なしとは、内外人にみとめられてゐた。/明治十九年二十七歳にして故國を辭した時から、全く婚嫁の念を斷ち、只日本の女子敎育に貢獻せむことをこゝろざし、四十四年の永い間、身も心も傾けつくし、倦むことを知らなかつた。/單に聖書や英語を敎授したばかりでなく、或は校長の職に於て、或は舎監の任に於て、各おかれた地位に本分を盡し、むしろ隅の置石たらむことを心がけられた。光城梅光の生徒等が、時代の惡風に浸むことの少かつたのは先生のお蔭によることが多かつた。」(梅光女学院史 / 黒木五郎著.1972縮刷版.502p. 同書p.227)

 

「多年學院の理事者として其維持團體たる傳道局と學院との意志の疎通を計りしのみでなく在任中四回歸國の際は、各地に遊説し、日米親善の氣風喚起に貢獻せられた。/梅光建築費の内ジヨンスチウアト、ケネデー氏の寄附金三萬五千弗/梅光講堂の建築費マアガレツト、オリヴアセエヂ夫人の寄附金約五萬圓/などの贈らるゝに至つたのは、先生の此の方面の貢獻が認められたのが主な原因であつた。」(同書p.227―228)

 

服部の「光」を継承したとすれば、この二人のうちどちらか、特にビゲローの可能性が大きいと思われます。エーレスは1916年(大正5年)には梅光を退いているからです。服部章蔵の意思は、梅光を作った先人たちに受け継がれ、今日まで続いているのです。

 

さて、邦訳聖書の語句は時代によって異なっています。
2016年(平成28年)現在、梅光のスクールモットーになっている「光の子として歩みなさい」は、どの日本語訳聖書からのものでしょうか。

 

RIMG0032丸山校舎校門「光の子として歩みなさい」

 

1887年(明治20年)明治訳「光の子(こ)輩(ども)の如く行ふべし」
1917年(大正6年)大正改訳「光の子供のごとく歩め」
1955年(昭和30年)口語訳「光の子らしく歩きなさい」
1978年(昭和53年)新共同訳「光の子として歩みなさい」

 

つまり、今使われている「光の子として歩みなさい」は新共同訳の文言で、実は、短大設立時にはまだこの世に存在していない翻訳です。スクールモットーが校章に採用された当初はラテン語のみだったのです。

 

一方で、「Ut filii lucis ambulate」のイメージは短大創設以前から存在していて、最近できたものではないことは、同窓生の証言から明らかです。
『梅光女学院遠望』(梅光女学院同窓会編.1987,319p)所収の、畔津和江(1939・昭14卒・梅25)の文「思い出」の中に、

 

梅光女学院遠望

 

「宗教の時間には、梅光精神の「神は愛なり」、「愛は絶えることなし」、「光の子らしく歩みなさい」と教えられました。」(同書p.299)

 

とあり、戦前から語られていたことが分かります。ただし、畔津が引用する語句はすべて聖書そのままの言葉ではありません。「神は愛なり」は三谷種吉 の『基督教福音唱歌:伝道会聖別会日曜学校用』(教文館.1900)13番「神は愛なり」(現讃美歌2編184番)からでしょう。この語は初代の院長廣津藤吉が揮毫の際に「信望愛」と並んでよく書いていたものです。「愛は絶えることなし」はコリント人への第一の手紙13章を元にしていますが、正確な引用ではありません。「光の子らしく歩みなさい」も口語訳と新共同訳が入り混じっている言葉です。とはいえ、戦前から「Ut filii lucis ambulate」が意識されていたのは間違いないという点で、この畔津の文章は大切な傍証になります。

 

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 丸山校舎講堂「愛はいつまでも絶ゆることなし」

 

現在の日本語のモットーが強調されるようになったのは1978年(昭和53年)以降でしょう。ラテン語から日本語の文言に移行するにあたって、広津信二郎がどの程度関与していたかは不明です。この時には学院長と幼稚園長を兼ねておられました。
広津信二郎が短大の卒業アルバムに残した聖書語句の引用を調べてみると、1968年(昭和43年)から1975年(昭和50年)までは詩篇27編から「主はわが光」、1978年(昭和53年)には「信望愛」。2つとも聖書を元にしつつ、聖書そのままの引用ではありません。

 

_15_広津信二郎(第5代目院長)
また広津を継いで学長となった佐藤泰正は1978年(昭和53年)にヨハネ第1の手紙5章「若子(わくご)よ、自ら守りて偶像に遠ざかれ」を引用しています。この語句は大正改訳によるものです。1989年(平成1年)からは詩篇126編「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるだろう」が短大閉学時まで続きます。これは口語訳からの引用で、新共同訳発行以後ですが、新共同訳の語句は採用していません。

 

_16_佐藤泰正 1968(昭和43年)卒業アルバム
そして、広津、佐藤両名とも光の子云々の文言をアルバムに残したことはありません。

 

以上のように見てくると、「光の子として歩みなさい」をスクールモットーとして前面に打ち出すようになったのは、平成に入ってからの院長と学長、すなわち峠口新、中野新治の時代になってからでしょう。
梅光の起源をより古い長崎時代に求めることが多い中で、「Ut filii lucis ambulate」の言葉を採用したのには、服部章蔵の存在、そして大いなる功労者ビゲローを忘れることがないようにという短大創立当時の意図が込められているのでしょう。
短大創立は、梅光が高等教育機関として第一歩を踏み出した、画期的な出来事でした。新たなる覚悟をもって先人たちの後を継ぎ、前進する。広津の心意気が感じられるようです。

 

日々の自分を振り返り、善き人であることを常に目指しなさい。「Ut filii lucis ambulate」
これはいつの時代にも私達が大切にするべき言葉ですね。

 

さて、私、湯浅は2016年(平成28年)3月をもって、梅光学院を辞することになりました。今日までの皆様のご厚情に感謝すると共に、これからも梅光同窓生の皆様の、ますますのご健勝をお祈り申し上げます。ごきげんよう。

 

 

2016年1月21日
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美(大6日)

梅光の思い出

2015年09月30日

「あさが(梅光にも)来た」って、ご存知でしたか?

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皆様、こんにちは。
ご無沙汰しております。10月に入ろうかというのに、下関はまだ暑い日が続いています。

 

さて、今週から始まったNHKの朝ドラ「あさが来た」の主人公廣岡淺子が、梅光に来ていたってご存じでしょうか?

 

広岡浅子1914年(大正3年)6月5日の開院式典の来賓の中に、廣岡淺子の名前があります。県知事代理、市長代理といったお決まりの来賓の他に、当日の祝辞を述べた来賓の一人が廣岡淺子です。どんなお話をしたのか、名前は残っていても、話の内容は残っていないので、残念ですが分かりません。激動の明治を女性実業家として生き抜いた人の言葉は、きっと、生まれたばかりの梅光の若い女学生たちに、強い印象を残したでしょう。

 

廣岡淺子は、日本女子大学設立の協力者でした。その日本女子大を作ったのは、山口県吉敷出身の成瀬仁蔵です。成瀬は、梅光の前身光城女学院の創立者、吉敷出身の服部章蔵の後輩にあたります。淺子は宮川経輝から洗礼を受けてクリスチャンになりました。

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建築家ヴォーリスの後援者でもあり(大学のスタージェスホールはヴォーリス設計事務所の作品です)、晩年には市川房江や村岡花子とも交流があった女性です。

 

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さらに、この開院式典には、現在も記憶される人たちが来賓として名を連ねています。

 

長尾半平(鉄道院管理局長)
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この人は、門司港にあった九州鉄道院の管理局長、出来たばかりの門司港駅の隣に管理局の建物がありました(現存しています)。大儀見元一郎から洗礼を受けたクリスチャンです。イギリスに港湾研究のために留学していますが、その下宿先で一緒だったのが夏目漱石。漱石の随筆『過去の匂い』に長尾が「K君」として出てきます。

 

森村市左衛門(ノリタケ、TOTO創業者)
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現在横浜にある森村学園を創設した森村市佐衛門です。小倉に日本陶器小倉工場(後のTOTO)が出来るのは1916年ですが、その前に、創業者森村は梅光にやってきています。彼は日本女子大学や慶應義塾に多額の寄付をするなど、日本の教育に貢献しました。晩年にはクリスチャンになっています。

 

 

宮川経輝(大阪基督教会牧師)
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熊本バンドのメンバーで、同志社大学の一期生。宮川も服部章蔵と間接的に関係があります。彼に牧師資格を授けたのは(按手礼と言います)、服部章蔵、成瀬仁蔵と同じく、吉敷出身の澤山保羅という人物。澤山は服部と共に幕末の山口県内で幕府軍と戦った人でしたが、アメリカ留学を経てクリスチャンになり、大阪に梅花女学院を創設しています。

 

 

富海松兵衛(下関教会長老)
唐戸にあった富海商会、錦波楼の主人、服部章蔵が建てた下関教会の最初の教会員の一人です。

 

こうしてみると、日本女子大学の関係者、また、服部章蔵と縁のある人たちがたくさん、下関梅光女学院の誕生を祝ってくれたことが分かります。服部章蔵は1848年生、廣岡淺子は1849年生、同時代人です。服部は大河ドラマ「花燃ゆ」の久坂玄瑞たちと共に禁門の変(蛤御門の変)に長州軍の一人として参加するのですが、幸いに生き延びて吉敷に戻ってきました。もし、あの時、久坂と共に戦死していたら、梅光は生まれていなかったかもしれません。

 

100年の歴史の中には、まだまだ面白いお話がありそうです。見つけたら、またお知らせしましょうね。

 

9月29日

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

下関今昔物語, 梅光の思い出

2015年03月31日

梅光100年の歩み 第12回 「梅光を支え育てた人たち」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

連載の最後に、皆様が在学中に必ずご存じの先生方をご紹介しましょう。

 

写真1. 広津信二郎

_15_広津信二郎(第5代目院長)

 

広津信二郎は、1906年(明治39年)11月3日、和歌山市生れ。父は前田直楠、母よしえ。
母方の叔父に、後に梅光女学院の第2代院長となる福田八十楠がいます。父直楠の早世により、一家は北海道に移住し、そこで叔父八十楠の薫陶を受けました。
1919年(大正8年)札幌市立北九条小学校卒業後、1920年(大正9年)関東学院中学に編入します。この時期に受洗した後、1929年(昭和4年)早稲田大学文学部卒、関東学院中学校教諭になります。

 

1940年(昭和15年)明治学院中学教諭時代に廣津藤吉の四女慰子と結婚し、広津姓を名乗ります。叔父と甥が奥さんを通じて兄弟になったのです。
梅光女学院との関わりは1948年(昭和23年)に始まります。梅光女学院総主事と高等学校長を兼任し、1950年(昭和25年)第5代院長になります。1951年(昭和26年)には米国長老派教会伝道局の招きで、半年間の視察旅行に出かけました。

 

帰国後、信二郎の手で育てられた梅光は大きく発展します。
1953年(昭和28年)梅光女学院付属幼稚園を開園。
1964年(昭和39年)梅光女学院短期大学を開学。
1967年(昭和42年)梅光女学院大学を開学。
1976年(昭和51年)梅光女学院大学大学院を開学。

 

梅光の先頭に立ち続け、学院の発展に尽くした人生を送られました。1983年(昭和58年)勲三等瑞宝章叙勲。ご本人は、作るばかりの人間と思われることを嫌がっていらしたようですが、学内だけでなく、地域の人々の協力体制を立ち上げての一大事業を成功させた力量には感服するばかりです。
梅光女学院設立資金募集委員会「短期大学設立趣意書」に顧問として名前が挙がっているのは、山口銀行頭取布浦眞作、日東漁業社長七田末吉、大洋漁業副社長中部利三郎、日魯漁業専務取締役江口次作、林兼造船社長中部文次郎といった錚々たるメンバーです。

 

1999年(平成11年)12月31日、学院長を辞任し、名誉院長の称号が贈られます。
2000年(平成12年)7月4日、大阪にて没、享年93でした。8月9日、短大スタージェスホール(現・大学)で学院葬が営まれ、以後、学院はこの日をメモリアルデーとして、卒業生や旧教職員の逝去者を偲ぶ日にしています。

 

写真2. 佐藤泰正

_16_佐藤泰正 1968(昭和43年)卒業アルバム

 

 

佐藤泰正は、1917年(大正6年)11月26日、山口県厚狭町に生まれます。早稲田大学文学部卒。文学博士。
1940年(昭和15年)山梨英和女学校教諭に就任の後、大阪市立高等女学校を経て、1945年(昭和20年)11月、梅光女学院教諭に着任します。赤毛のアン(村岡花子)の学校から少女パレアナ(山本つち)の学校への異動ですね。広津信二郎よりも先に梅光に来られています。

 

1949年(昭和24年)、急逝した水津米(1889-1949)の後をうけて梅光女学院中学教務主任と中学部長(中学校長)を兼務し、翌年から中学部長となります。1956年(昭和31年)教職員内地留学制度第1期生として早稲田大学に1年間の依託生として送り出されます。この制度は以後長く続いて、教職員の資質向上に大きく貢献しました。

 

1964年(昭和39年)下関開学50年を記念して創設された梅光女学院短期大学の開学に際して副学長となり、1971年(昭和46年)には広津信二郎の後を継いで梅光女学院大学学長に就任、翌年から短期大学の学長も兼任します。以後、1999年(平成11年)までの長きにわたって大学学長職を全うし、多くの卒業生に強い影響を与えました。

 

今もその研究と教育への情熱は衰えることがありません。大学院の講義の為に東駅キャンパスに足を運ばれる、その足取りこそ弱られましたが、若い人に文学を力強く語る言葉も声も張りを失っていません。
近代文学の研究者として全国的に知られ、大学公開講座の開設、各種講演等の業績により「文学の梅光」の名を地域に広め高めた功績は、誰からも認められるところです。

 

写真3. 平石長義

_18_平石長義 1968(昭和43年)卒業アルバム

 

平石長義は、1918年(大正7年)11月21日、豊浦郡角島に生まれます。
1938年(昭和13年)広島高等工業機械科卒、1942年(昭和17年)九州帝国大学工学部卒冶金科卒。海軍に入隊し、終戦時海軍技術大尉でした。
東京急行電鉄を経て、昭和24年頃、梅光女学院に着任し、理科教諭として授業を受け持つほか、事務局長として、学校法人の設立、幼稚園開園、短期大学開校、大学開校などの事務手続きに携わり、広津院長を支えて活躍しました。事務の先生として覚えている卒業生が多いと思います。
1953年(昭和28年)梅光幼稚園開設の一期生に、長男平石純一氏の名があります。開園に際して、純一氏の入園に間に合うように急いだという逸話も残っています。
2011年(平成23年)11月21日、福岡で没。享年93でした。

 

写真4. 河田哲

_19_河田哲

 

河田哲は、1925年(大正15年)9月6日、下関に生まれます。両親ともに熊本出身で父は鉄道省に勤務していた功。母マツは熱心なキリスト者で、哲と弟は幼児洗礼を受けたそうです。弟稔氏は後に日本福音ルーテル教会の牧師になりました。

 

1943年(昭和18年)下関中学校卒、1946年(昭和21年)3月、大連の南満州工業専門学校(旅順工科大学)卒。この間、勤労学徒動員で遼陽の陸軍三八三部隊の火薬工場に徴用され、終戦後は中華民国第九兵工省に現地留用されています。同年11月9日に帰国。
1947年(昭和22年)大洋漁業に入社、油脂工場研究室に所属し、下関ルーテル教会で日曜学校の教師を務めています。

 

1951年(昭和26年)1月8日、広津信二郎に誘われて理科教諭として梅光女学院に着任します。この年3月、学院は学校法人梅光女学院を設立、丸山町に本館、講堂、東館が落成し、戦後の復興を遂げて新しい教育へのスタートを切った時期でした。ソフトボール部の顧問として、四校試合に活躍された事は多くの卒業生の知るところです。

 

1968年(昭和43年)梅光女学院中学校校長、1971年(昭和46年)梅光女学院高等学校校長。20年以上にわたって、中・高の校長職を務め、昭和の後半から平成にかけて、生徒たちの精神的支柱として敬愛されます。日々の礼拝の中での生徒たちへの訓話は、平明で分かりやすく、若い人たちの心に届くものでした。
1992年(平成4年)9月29日、下関で没。享年67でした。10月18日、丸山講堂で学院葬が営まれました。従五位勲四等旭日小綬賞。

 

梅光100年の歩み、機会がありましたらまた別の写真とお話を、と思っております。
皆様ありがとうございました。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

梅光100年の歩み(連載)

2015年03月05日

梅光100年の歩み 第11回 「梅光に来たヘレン・ケラー」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

戦前、梅光の講堂は下関市内でも立派な建物の一つだったようです。本格的なグランドピアノがありましたから、海峡を行き来する音楽家たちが立ち寄って、練習場所にしたり、コンサート会場にしたり。
このピアノを使って学び、ピータースから教えを受けて、音楽家になった卒業生も多かったようです。

 

世界的な有名人もやってきました。

 

写真1. ヘレン・ケラー

75.1938(昭和13年)ヘレンケラー 1937.5.25

 

1937年(昭和12年)5月25日、初めて来日したヘレン・ケラー(1880-1968)が日本全国を講演して下関に来た時の写真です。下関市主催の講演会の会場が、梅光の講堂でした。昼夜2回の講演があったそうです。トムソン嬢と日本人通訳の2段階を経ての講演でした。
ケラーの宿泊先は、地元の実業家河村幸次郎(1901-1994)宅でした。下関市立美術館は彼の個人蒐集を基にして設立されたもので、開館時に河村氏は名誉館長の称号を贈られています。

 

ヘレン・ケラーと言えば、塙保己一(1746-1821)との関係も有名ですね。『群書類従』を編纂した塙保己一のことを、アメリカ留学に行った日本人から聞いていたヘレンが、来日して最初に訪れたのは温故学会だったそうです。学生時代『群書類従』のお世話になった、大学日本文学科(国文科)の卒業生も多かったのではないでしょうか。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

梅光100年の歩み(連載)

2015年01月27日

梅光100年の歩み 第10回 「戦災と福田八十楠」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

写真1. 大畠校舎、記念館

83.1949(昭和24年)大畠校舎 記念館
1945年(昭和20年)7月2日早朝、梅光女学院は空襲によって校舎のほとんどを焼失しました。
この写真は焼け残った校門と、廣津記念館(1941・昭和16年竣工)です。他に残ったのは廣津藤吉邸(2000年9月29日解体)とビゲローが残した祈りの家(移築して現存)だけでした。

 

授業をするために、近くの丸山教会とカトリック教会を貸してもらい、さらに日和山公園に建っていたバラックを借りました。現在、大学が建っている大畠校地(現・東駅キャンパス)もその時に使わせてもらうことになった土地です。
写真中央にあるのは大畠校地にあった旧下関重砲連隊の倉庫です。

 

写真2. 大畠校舎 礼拝風景

84.1949(昭和24年)大畠校舎 礼拝風景

 

大畠の校舎には電燈もなく、窓ガラスも盗まれてしまっていました。この写真はそのような不自由な中でも行われていた礼拝。生徒たちはおそらく床に直接座っています。画面奥のオルガンの後ろに整然と並ぶ四角い枠が見えますが、これはガラスがなくなってしまった窓です。そこに木の板をはめ、中央を十字に切って明り採りにしていたことが分かります。

 

1946年(昭和21年)、仮校舎を建てるため、この建物と日和山の建物を解体し、使える木材を教員と生徒たちとが協力して丸山町に運びました。このことを覚えておられる卒業生がまだいらっしゃいます。その方たちのご苦労が、今の梅光の礎となったことに感謝したいと思います。

 

敷地内には、高射砲を備え付けるための大きな穴も残っていました。生徒たちはそこに出入りして遊んだそうです。

 

写真3. 福田八十楠

_14_福田八十楠(2代目院長)

 

戦後の復興を最初に担ったのは、第2代院長福田八十楠です。
福田八十楠は1895年(明治28年)4月8日、和歌山市に生まれます。広津信二郎は八十楠の甥にあたります。

 

八十楠は2人の兄がキリスト者であったため、影響を受けて受洗。1916年(大正5年)東北帝国大学予科を卒業し北海道帝国大学農学部に進み、1919年(大正8年)に卒業します。北海道時代は札幌バンドとの交流もあり、甥信二郎は小学校の時に八十楠の指導を受けています。さらに1922年(大正11年)東京帝国大学理学部を卒業し、この年11月、満州医科大学予科教授となります。満州時代に、廣津藤吉の長女君と結婚して、廣津家との交流が始まります。
1933年(昭和8年)から2年間、ドイツのミュンスター大学に留学し「植物水度論」をグスタフ・フィッシャー書店から出版するなど、科学者としての道を進みました。1940年(昭和15年)北京大学理学院生物学科系主任教授になります。

 

1945年(昭和20年)3月、岳父廣津藤吉の依頼を受けて院長職を受ける決意をし、北京大学を辞任します。6月30日、梅光女学院着任。そして7月2日の下関空襲で梅光は罹災したのです。
院長着任後3日目に受けた学院存亡の危機に、ひるむことなく対策の手を打ち続けた福田は、戦後の梅光を立ち直らせた第一人者と言えるでしょう。

 

大畠の旧重砲連隊の土地を借りる手立てをつけたのも福田でした。後にこの土地を買い受けて幼稚園、中学校校舎、中学校校長宅(佐藤泰正住居)、中学校教頭宅(村上省三住居)が建ち、さらに短期大学が建ち、現在は大学があります。
東駅キャンパスは、福田によって道を開かれた場所なのです。

 

1946年(昭和21年)復興の道筋を整備した福田は辞任し、再び廣津藤吉が院長になります。以後、福田は広島文理大学(現・広島大学)の教授になり、梅光女学院短期大学の開校のときには教授の一人に名を連ねました。梅光女学院大学教授も歴任します。
1970年(昭和45年)11月4日、東京で没。享年75でした。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

 

梅光100年の歩み(連載)

2014年12月14日

梅光100年の歩み 第9回 「セーラー服」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

先生方のお話が続いたので、今回は制服のお話を致しましょう。

 

写真1. 昭和6年教室風景

105.1931(昭和6年)高校卒業アルバム 授業風景 黒木五郎

 

写真2. 昭和10年入学記念

69.1935(昭和10年)入学記念

 

梅光のセーラー服が制定されたのは1924年(大正13年)です。
梅12回生、百元知恵が、「梅光」誌19号(1987年/昭和62年6月10日)で「私共の四年生の時に制服が制定されました」と述べています。この人が4年に進級するのは1924年(大正13年)4月、その年の制定だと判断できます。

 

最初のセーラー服は、白の2本線に黒リボンです。
この取り合わせの意味はなんでしょう。まず、白の2本線は、1919年(大正8年)第一回の梅光卒業生が学校に寄贈した校旗の2本線から取られたと思われます。その線の意味は、次のように述べられています。

 

「白色の斜線は月光に照らされたる梅の若芽で、梅光の内的精神を象徴」(梅光女学院史 / 黒木五郎著.1972縮刷版 p.415)
その梅光の内的精神とはなにか、セーラー服制定の前年、1923年(大正12年)3月に初めて作成された卒業アルバムから、さらに読み取ってみましょう。100年記念絵葉書のケースのデザインを思い出して下さい。

 

アルバムの制作に当たったのは藤山一雄(1889-1975)です。藤山は、表紙を黒とオリーブの2色にして、「オリーブは青春、黒は清教徒気分」と色の意味を述べ、2色の交わるところに、金の十字架にからまる2本の白線をデザインし、それを「信望愛」と呼びました。
黒のリボンは「清教徒気分」、つまり、ミッションスクールの象徴で、十字架が「信」ならば2本の白線は「望」と「愛」になります。

 

つまり、白2本線に黒のリボンの梅光のセーラー服は、ミッションスクールらしく清廉、質素、実直を尊び、華美、奢侈、我儘を嫌い、愛と希望をあらわしたものなのです。
この白線と黒リボンの制服は1958年(昭和33年)卒の梅光女学院生まで続き、その年の4月入学生から変更されました。金2本線に梅光カラーと呼びならわすえんじ色のリボンは、似たようなセーラー服を採用した他校と区別するためだったそうです。

 

写真3. 校内点描

78.1938(昭和13年)校内点描

伝統の制服を着ることには、それを制定した先人の心を受け継ぐという意味もあるのではないでしょうか。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

 

梅光100年の歩み(連載)

2014年11月21日

梅光100年の歩み 第8回 「梅光の母たち その3」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

マッケンジーと同じ時期に梅光にいて、隣り合った家に住んでおられたのが今回の「梅光の母」です。

 

長崎にあった梅香崎の兄弟校東山学院の第7代院長アンソニー・ワルボード(1878-1919)は、両親がオランダからアメリカに渡った移民です。ホープ大学出身の彼は、東山学院においてもっとも生徒たちから愛され慕われた院長でした。
その姪にあたるのが、梅光のワルボード、フローレンスです。

 

写真1. ワルボード

_12_フローレンス ワルボード画像

 

フローレンス・シンシア・ワルボードは、1895年(明治28年)1月28日、米国ウィスコンシン州シーダーグローブに生まれました。1914年(大正3年)ホープ大学に入学し、1918年(大正7年)に卒業します。
翌1919年(大正8年)、大学の先輩でもある叔父アンソニーが長崎で没しています。フローレンスは日本に来る前から、梅光にご縁のあった先生だと言っていいでしょう。

 

1922年(大正11年)改革派の宣教師として来日し、1925年(大正14年)下関梅光女学院に着任。優れた英語教育者として評価が高く、卒業生の記憶にも残ります。1939年(昭和14年)、梅光を辞して横浜のフェリス女学院に移り、一旦帰米。
1947年(昭和22年)再来日し、翌48年(23年)梅光に帰任し、梅光の復興資金の調達に奔走するとともに、戦災を受けた生活困窮者への援助も熱心に行いました。アメリカから古着や食料品を支援物資として取り寄せ、生徒や地域の人たちに配ったことを覚えている人は多いでしょう。
1951年(昭和26年)丸山の講堂の再建の時も、ワルボードは資金集めに奔走しました。マッケンジー帰米後も教鞭をとり続け、幼稚園児の英語教育にも携わっています。

 

1960年(昭和35年)定年により梅光を退職し帰米。長年の功績に勲5等が授与されています。
1968年(昭和53年)10月1日、テキサス州のサンガ―マナー(老人介護施設)で没、享年73でした。

 

それぞれ永く記憶に残しておきたい「梅光の母たち」をご紹介しました。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

梅光100年の歩み(連載)

2014年11月21日

梅光100年の歩み 第7回 「梅光の母たち その2」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

多くの方が特に記憶に留めて居られるのはマッケンジー先生でしょうか。戦後の卒業生たちが第一に名前を挙げますね。

 

写真1. マッケンジー

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ヴァージニア・M・マッケンジーは1894年(明治27年)5月18日、スコットランドのルイス島に生まれます。1908年(明治41年)米国オレゴン州に移住。1916年(大正5年)リード大学卒。ラテン語、ギリシャ語に秀でた人でした。

 

1919年(大正8年)長老派宣教師として来日、下関梅光女学院に着任し、さらに大阪のウィルミナ、北海道の北星と転任して、1930年(昭和5年)から再び梅光に来ます。戦前の国際事情により、英国籍から米国籍に変わるためいったん離日しましたが、第二次世界大戦が始まって来日出来なくなったことはよく知られています。この間、全米を講演して回り、梅光のための寄付金を集めています。

 

1947年(昭和22年)再来日すると、翌48年(23年)から梅光で教鞭をとり、廣津藤吉の後を受けて第4代院長に就任します。1953年(昭和28年)には、梅光女学院附属幼稚園の初代園長にもなりました。
1958年(昭和33年)定年退職し、帰米。以後も長く梅光の精神的支えとして慕われました。2000年(平成12年)7月6日、ロスアンゼルス市の引退宣教師老人ホームで没、享年106でした。
同じ年同じ月のわずか2日前に、太平洋を隔てて広津信二郎先生が亡くなられたのは、梅光の戦後が終わったこと、20世紀の終焉を感じさせる悲しい出来事でした。

 

讃美歌512番「わが魂の慕いまつるイェス君の麗しさよ」は、マッケンジーが帰米する際に、下関駅頭で教え子たちによって歌われたものです。美しい旋律に寄せて先生を偲ぶことに致しましょう。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

梅光100年の歩み(連載)

2014年10月17日

梅光100年の歩み 第6回 「梅光の母たち その1」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

卒業生の記憶にある「梅光の母」は誰でしょう。
今回から、それぞれに母と慕われた、女性の先生方をご紹介します。

 

写真1. 講堂

59.1925(大正14年)築 講堂

 

初代の講堂は1925年(大正14年)に建設されました。建設に当たっては、米国北長老派教会の慈善家として知られたマーガレット・オリヴィア・セージ(1828-1918)からの5万円が使われました。セージ夫人が1907年に創設したラッセル・セージ財団は、ロックフェラー財団やカーネギー財団と並ぶ財団として、アメリカの社会政策研究活動を今も展開しています。
この資金を得る時には、ビゲローの活躍がありました。

 

写真2. ビゲロー

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ガートルード・サラ・ビゲローは、1860年(万延1年)5月17日、米国ニューヨーク州バタヴィア生まれ。ハミルトン・レディス・セミナリーを卒業後、教職に就いていましたが、日本伝道の宣教師に呼び掛けられて、来日を決意します。1887年(明治20年)東京の新栄女学校(後の女子学院)に長老派の教育宣教師として着任。北陸女学校を経て、1892年(明治25年)、光城女学院に着任。服部章蔵とジェームス・B・エーレスを補佐して英語、倫理、唱歌、体操を教え、1899年(明治32年)光城の第2代院長になります。

 

黒木五郎の『梅光女学院史』には、「多年学院の理事者として其の維持団体たる伝道局と学院との意思の疎通を計りしのみでなく在任中四回帰国の際は、各地に遊説し、日米親善の気風喚起に貢献せられた。/梅光建設費の内ジョンスチウアト、ケネデー氏の寄附金三萬五千弗/梅光講堂の建設費マアガレット、オリヴァセエジ夫人の寄附金約五萬円/などの贈らるゝに至ったのは、先生の此の方面の貢献が認められたのが主な原因であった。」とあり、その熱心な教育者ぶりが想像できます。

 

梅香崎と合同するとき、ビゲローは光城の院長から一介の教師として梅光に来る決断をします。設置認可を得るにあたって、外国人女性が梅光の院長になることは難しかったのです。

 

1927年(昭和2年)日米友好の「青い目の人形」の山口県贈呈式はビゲローによって行われました。1930年(昭和5年)丸山敷地内に「祈りの家」を寄贈して帰米します。1941年(昭和16年)11月1日、カリフォルニア州ロサンゼルスで没。享年81でした。

 

ビゲローは厳格な人でしたが、彼女の薫陶によって清廉な光城生・梅光生が育ったとも言えます。経済的困難の生徒や地域の罹災者へ、私財を惜しまず支援する人でもありました。
光城時代の教え子に、後に女子学院の院長となる弘中つち(山本つち)がいます。ビゲローの支援によってアメリカ留学したつちは『少女パレアナ』の翻訳家として有名です。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

梅光100年の歩み(連載)

2014年10月03日

梅光100年の歩み 第5回 「藤山一雄」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

写真1.校内松林

54.1923(大正12年)校内松林

 

以前ご紹介した、マツタケも採れた松林の中に立つ和服の先生が藤山一雄です。
100年記念で作成した戦前の校舎の絵葉書を収めたケースは、1923年(大正12年)に藤山が下関梅光女学院初の卒業アルバムとしてデザインした表紙を再現したものでした。

 

藤山一雄は1889年(明治22年)4月16日、玖珂郡神代村平原(現・岩国市由宇町)に生まれ、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業しました。
1921年(大正10年)廣津藤吉に誘われて下関梅光女学院の地理科教諭に就任します。藤吉の後を受ける第2代学院長の候補に推薦された人物であることは、あまり知られていませんが、優秀な人物だったことが分かります。

 

1926年(大正15年)梅光を退職して大陸に渡り、南満州鉄道、大連市女子人文学院講師などを経て、1939年(昭和14年)から満州国国立中央博物館副館長に就任しています。当時には珍しい野外展示の発想など、博物館活動の先駆的人物として、現在でも高く評価されています。
1945年(昭和20年)由宇町に帰郷した後は、山口県の農村新生運動の推進に携わり、晩年まで県の産業の発展に力を注ぎました。
1951年(昭和26年)、梅光女学院出版局から、廣津藤吉の初の伝記『廣津先生の生涯』を出版しています。
1975年(昭和50年)4月10日、由宇町にて没。享年85でした。

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

 

梅光100年の歩み(連載)

2014年10月03日

梅光100年の歩み 第4回 「黒木五郎」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

今回は校歌とかかわりの深い先生です。

 

写真1. 黒木五郎

_08_黒木五郎画像

 

黒木五郎は1871年(明治4年)3月15日、豊後臼杵の生まれです。幼少期から漢文を学び、1891年(明治21年)大分尋常師範学校を卒業後、大分県下小学校の教師となり、校長職も務めた教師一筋の人物です。教職に就きながらも間も漢文と仏典を学び続けたと聞きます。古典の教養豊かな人だったのでしょう
1903年(明治36年)、廣津藤吉に請われて梅香崎女学校に奉職。1910年(明治43年)頃、長崎教会で受洗、熱心な教育者であると同時に熱心なキリスト者となりました。藤吉とは同い年、お互いにうまが合ったようです。

 

1914年(大正3年)下関に梅光が誕生するに当たって、廣津藤吉と共に生徒を連れて長崎から移動し、新設校の整備と運営の中心者として活躍しました。

 

黒木五郎の大きな功績が2つあります。
一つ目は1915年(大正4年)、下関梅光女学院校歌を作詞します。曲はジェーン・M・ノードフ(1882-1970)が提供したとされていますが、彼女の作曲なのか、何か原曲があるのか、今でも分かりません。
作詞に当たって黒木が最初に着想した「我らの母校は山の上の城」の部分はマタイ伝5章13節―14節から採られたと思われます。
「爾曹ハ地の鹽なり鹽もし其味を失はゞ何を以か故の味に復さん。後は用なし外に棄てられて人に踐まるゝ而己。爾曹ハ世の光なし山の上に建てられたる城は隠ることを得ず」(新約全書.米国聖書会社.横浜,1881・明治14 p.9-10)
校歌は現在も変わることなく歌い継がれて、2015年には校歌100年を迎えます。

 

二つ目は『梅光女学院史』(1934)を刊行したことです。合同当時の生き証人として、黒木の記述は、初期の学院を知ることが出来る一級資料です。
中高短大の事務所で長く務められた黒木正一(1912-1995)・恵美(梅22)夫妻は五郎の養嗣子にあたります。
1936年(昭和11年)5月3日、下関で没。享年66でした。

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

梅光100年の歩み(連載)

2014年08月27日

梅光100年の歩み 第3回 「廣津藤吉」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

2014年(平成26年)6月21日、東京支部総会でご紹介した写真の3回目、梅光を代表する先生です。

 

写真1. 初代院長廣津藤吉

_07_初代院長廣津藤吉

 

廣津藤吉は、1871年(明治4年)3月13日、豊前中津の士族の家に生れました。1888年(明治21年)、受洗。当時、大分師範学校に在学していましたが、キリスト者であることを理由に招魂社(護国神社)参拝を拒否したことが問題となり、退学させられます。師範学校校長鎌田栄吉に、今後はキリスト者として生きろと励まされて、1889年(明治22年)長崎東山学院に入学します。中津の先輩坂文一(生没年未詳)に勧められて長崎に行きましたが、このとき、大分の宣教師S.H.ウェンライト(1863-1950)のアドバイスに従っていれば、同志社に進んで新島襄の教え子になっていたかもしれません。

 

東山学院の神学部を卒業した藤吉は、1887年(明治20年)に出来た梅香崎女学校の教員になり、1901年(明治34年)には齋藤實徳の後を継いで第3代の校長になります。
1914年(大正3年)下関梅光女学院創立院長に任命され、大正、昭和前期、戦中、戦後の長きにわたって、生涯を梅光における教育の発展に捧げたことは、皆様ご存じのとおりです。
女婿にあたる第2代福田八十楠と第5代広津信二郎が、さらに梅光を支え発展させてきました。

 

藤吉は多才な人物で、1916年(大正5年)下関に火山があったことを火山弾の発見により明らかにし、1924年(大正13年)校内に天体望遠鏡を備え、1925年(大正14年)にはラジオアンテナの設置、1927年(昭和2年)には学内に映写設備を講堂に設置するなど、教育設備の拡充に熱心でした。1929年(昭和4年)には温室を建造し、牧野富太郎と共に植物採集に出掛ける博物学者としての顔も持っています。
1960年(昭和35年)1月10日、下関で没。1月18日、丸山講堂で学院葬。享年88でした。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

 

梅光100年の歩み(連載)

2014年08月10日

梅光100年の歩み 第2回 「丸山の昔」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

この連載で皆様にお見せしているのは、2013年10月2日(水)~7日(月)まで下関大丸の7階で開催した「梅光100年のあゆみ」写真展で展示した写真です。
卒業生や在学生だけでなく、地域の方々がたくさん見に来て下さいました。地域に歴史を公開することで、梅光が下関に100年過ごさせていただいた感謝の一端をお届けできたのではないかと思います。

 

焼ける前の梅光はどんな学校だったのか、1923年(大正12年)に作られた最初の卒業アルバムから、当時の風景を見てみましょう。

 

 

写真1.物理館

53.1923(大正12年)物理館

 

 

写真2.宣教師館

57.1923(大正12年)宣教師館
物理館は物理教室が入っていたところからその名で呼ばれました。
宣教師館は文字通り宣教師の住居でした。本館と並んで、高い所に西洋館が立ち並ぶ風景は、細江から見上げるとさぞ目立ったことでしょう。

 

 

写真3.校内松林

54.1923(大正12年)校内松林
松林の写真、洋服姿が廣津藤吉(1871-1960)、和服姿は藤山一雄(1889-1975)です。
この二人については、後の回でお話ししましょう。当時、丸山の上にはこんな松林があって、生徒や先生方の散策路、憩いの場所にもなっていました。一角にはベビーゴルフ場も作られていました。季節にはマツタケも採れたそうです。

 

 

写真4. 雨天体操場とテニスコート

58.1923(大正12年)雨天体操場とテニスコート
雨天体操場は本館から山側に渡り廊下で繋がって建てられた建物でした。テニスコートの女学生が和服姿のところが、いかにも時代を感じさせますね。

 

 

写真5. 卒業式記念写真

51.1923(大正12年)卒業式記念写真
大正12年の卒業生たちです。袴姿です、まだセーラー服ではありません。2列目の左寄りに写る白い服はおそらくチマチョゴリ、当時、半島と距離の近い下関には外地からの生徒が来ていた事が分かります。

 

 

写真6. 教職員

56.1923(大正12年)教職員

 

当時の先生方です。全員のお名前が分かると良いのですが、残念ながら分かっている先生は僅かですが、廣津藤吉、藤山一雄はお分かりですね。藤吉の横でフロックコートを着ているのが『梅光女学院史』を書いた黒木五郎(1871-1936)です。

 

開学当時に近い風景、楽しんでいただけたでしょうか。
次回から何回かにわたって、先生方をご紹介しましょう。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

 

梅光100年の歩み(連載)

2014年07月24日

梅光100年の歩み 第1回 「最初の本館」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 湯浅直美

 

 

何回かの連載で皆様に梅光の歴史をお話します、学院資料管理委員長の湯浅と申します。  (写真:梅光学院大学HPより)

 

これは2014年(平成26年)6月21日、東京支部総会で話させていただいた内容を少し詳しくしたもので、当日ご都合で総会に出席なされなかった皆様にも楽しんでいただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

写真1.ケネデー館

63.1930(昭和5年)ケネデー館 絵葉書(写真提供:梅光学院 学院資料室)

 

この建物は1914年(大正3年)に建てられた旧本館、ケネデー館です。木造2階建の西洋館。

 

この名称は、寄贈者のジョン・スチュアート・ケネディ(1830-1909)から取られています。ケネディはスコットランドからアメリカに渡り、鉄道と銀行で財をなした人物でモーガンやロックフェラーと並ぶ大富豪でしたが、子どもがいなかったため、遺産はメトロポリタン美術館、コロンビア大学などに贈られ、さらに米国北長老派教会の伝道局に贈られ、海外伝道の資金になりました。その中から3万5千ドルが山口の光城女学院に届いて、下関梅光女学院を生むきっかけとなりました。当時の円ドル相場では約7万円になるようです。

 

光城女学院の理事だったジェームス・B・エーレス(1859-1940)がこの寄付金を使って下関に新しく合同校を作ることを、長崎の梅香崎女学校のウィルス・G・ホキエ(1883-1949)に働きかけ、それが実現して梅光が生まれました。エーレスは梅光の直接的な生みの親、初代設立者として、また2代理事長として、覚えていただきたい人です。

 

写真に写るケネディ館は1945年(昭和20年)7月2日の下関大空襲で焼失しました。現在の本館が建ったのは1951年(昭和26年)4月のことです。旧本館と同じ位置に再建され、建物の前に写っている石段は今も同じところにあります。100年の歩みを足元から眺めている石段です。

 

2014-06-05 09.39.15石段の横には、2014年6月5日、「梅光の先達たち」と題した顕彰碑が建ちました。ヘンリー・スタウト、服部章蔵、廣津藤吉、バージニア・M・マッケンジー、広津信二郎の5人の写真と略歴を刻んだものです。下関にお帰りの節は、丸山町にお足を運んで見に来て下さると嬉しいです。

 

今の本館も老朽化が進んでいます。これから先も長く後世に残していくか、あるいは新しく建てなおしていくか、皆様のお知恵をお借りしたいと思っています。

 

2014-06-23-09_25_32お目に懸けているのは、1930年(昭和5年)に作成された梅光女学院の絵葉書の画像です。廣津藤吉が作成した学校グッズ絵葉書の一つです。この絵葉書を含む絵葉書セット(9枚)を作りました。1セット1,000円です。セットのケースは卒業アルバム第1号表紙(藤山一雄デザイン)を再現したものです。

 

購入御希望の方は、梅光学院学院資料室(℡ 083-227-1037)にお問い合わせください。

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

 

梅光100年の歩み(連載)

2013年02月03日

1992年 河田 哲 先生の学校葬にて

1992年10月18日~19日、在学時に中学校・高等学校校長でいらした河田 哲 先生の学校葬に参列しました。その折にお目にかかった先生方です。

 

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翌日、還暦を迎えた学年の方々の同期会があり、院長先生もご出席されました。

 

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高27 時山響子(旧姓 原田)

梅光の思い出

2012年05月26日

昭和11年の皆既日食観測

2012年6月21日朝、金環日食のニュースが日本中に流れました。東京近郊はあいにくの曇り空でしたが、金環日食の前後は雲の切れ間から太陽が顔を出し、多くの観測者が美しいリングを見ることができました。

 

 

今から遡ること76年、梅光女学院の先輩方が昭和11年6月19日の皆既日食を観測したという記事が大阪毎日新聞に掲載されました。大変面白い記事なのでここにご紹介いたします。これは、今回の日食にちなみ、市民の方が学院に送ってくださったものです。

 

 

 

あす見逃がすな
黒衣のお日様
◯◯◯◯◯学園の一角に望遠鏡の放列
◯◯◯◯◯◯◯梅光女学院の日食観測陣!

 

天界の神秘 ”黒衣の太陽” に全世界の天文学者が敢然科学の挑戦を試みる待望の19日はあすだ。この日緑風渡る下関梅光女学院校庭では花も恥らう乙女天文家達によって永遠の恋人皆既日食邀撃の豪華バラィエティが開かれる。廣津同院長が総司令官、樽見、近木両教諭が参謀となり

同校5年生18名の制服の処女達を動員、カーネーションの花咲く学園の一角に

英国製3インチ級屈折望遠鏡、8インチ級反射天体望遠鏡の2台を据えつけ、

午後2時12分の初虧を期して観測を開始、2分間天界神秘を色レンズの即製

望遠器を通じつぶら瞳の放列で見事キャッチし午後4時34分の復円まで

約2時間半160の麗眸を集中して ”ベールのお日様” をさんざん射すくめよう

というので

街の天文学者として知られた赤間町伊勢安呉服店の若主人河村光次郎、福岡専売局下関出張所長加納慶吉両氏はじめ関門天文同好会のアマチュア連10数名も参加合流し女学生観測陣に精彩を添えることとなった

 

 

 

今年下関では、早朝より生徒達が丸山校舎に集い、世紀の天体ショーを楽しみにしていましたが、残念ながら雲に阻まれて観察できませんでした。その代わり、先生方のご配慮により、 特別に学校のテレビで各地の実況中継が見られたそうです。

 

高27 時山響子(旧姓 原田)

梅光の思い出

2012年03月20日

2006年 丸山校舎訪問

2006年8月11日、暑い最中、高27の同期と懐かしい丸山校舎を訪問させていただきました。これはその折の記録です。

 

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待ち合わせは10時30分、正門前ということになっていましたが、外は暑いからという先生のご配慮で、正面玄関を入ったところに変更されました。正門から本館に通じる坂道はつい最近整備され、車が楽にすれ違えるほどの広さになっています。バスで来たのは東京組だけで、他は車で颯爽とやって来ます。なるほど、これなら道を広げる必要がありますね。坂のすぐ下にあった民家はなくなり、今は駐車場になっています。

 

 

玄関で待っていてくださった梶間先生にそれぞれ挨拶をしてから応接室に入ります。久しぶりに再会した面々は懐かしさのあまり大はしゃぎで、校長先生がいらしたのにも気づかずおしゃべりを続けていました。今回、校内見学を許可してくださった田中校長にまずはご挨拶をと気を遣われた梶間先生は、早く着席するよう、しきりに促されたのですが、なかなか言うことをきかない元生徒にやきもきされたそうです。

 

どんなに時が流れても、会えば女学生に戻ってしまう学生時代の仲間です。昔なら先生に「早く座り!」と一喝されたところですが、生活指導で特に厳しかった先生もさすがにそれは遠慮なさったようです。

 

田中校長は、壇ノ浦を描いた絵画「DANNOURA’90」(綿谷清志氏寄贈)をご紹介くださり、今昔の風景になぞらえて「新しいものを創り出すには古いものがしっかりと受け継がれていなければならない」というお話をされました。卒業生の我々にとっては意味深いお言葉でした。

 

 

待望の校内見学は本館からスタートです。梶間先生の引率で、高校時代の教室や、毎朝礼拝が行われた講堂、眺望抜群の本館屋上など、懐かしい場所を見せていただきました。

 

 

 

本館屋上より火の山、関門橋、和布刈方面を望む

 

本館屋上より関門海峡を望む 中央に巌流島、右手に彦島、海峡ゆめタワーが見える

 

その後、中学時代の教室があった東館と記念館に行きました。建物はほぼ昔のままですが、中の様子は変わっています。当時より生徒数が少ないため、教室の数が減って特別教室が増えていたし、新しい建物が増築されて、休み時間に遊んだり、歌を歌ったり、おしゃべりをしたりした、思い出の中庭がなくなっていました。今の生徒さんたちは、休み時間をどこで過ごしているのでしょう?

 

特に、本館からも東館からも離れた場所にある記念館は、当時は中学3年生の教室と家庭科室だけしかないという、憧れの場所でした。本館、東館からは地下のトンネルを通って行くのです。そこはまるで小さな独立国のように思えたものでした。その記念館も今は生活館という名前に改められ、美術室、調理実習室、家庭科室などの特別教室棟になっています。余った机がトンネルの中に積まれているのを見て、とても悲しくなりました。

 

そんな中に、私達にも見覚えのあるものをいくつか発見。まだこんなものを使っているんだ! と驚いたり、さすがに、もう処分すれば良いのに! と呆れたり・・・ さすがに135年の伝統ある学校と言えなくもありませんが、私達には懐かしくても、今の生徒さん達にはいかがなものか・・・ と思ってしまいます。

 

再び応接室に戻り、ひと息入れた頃にはすでに12時を大幅にまわっていました。そろそろ母校ともお別れです。

 

 

梅光女学院高等学校・中学校 思い出のアルバム へ

 

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