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梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
マッケンジーと同じ時期に梅光にいて、隣り合った家に住んでおられたのが今回の「梅光の母」です。
長崎にあった梅香崎の兄弟校東山学院の第7代院長アンソニー・ワルボード(1878-1919)は、両親がオランダからアメリカに渡った移民です。ホープ大学出身の彼は、東山学院においてもっとも生徒たちから愛され慕われた院長でした。
その姪にあたるのが、梅光のワルボード、フローレンスです。
写真1. ワルボード
フローレンス・シンシア・ワルボードは、1895年(明治28年)1月28日、米国ウィスコンシン州シーダーグローブに生まれました。1914年(大正3年)ホープ大学に入学し、1918年(大正7年)に卒業します。
翌1919年(大正8年)、大学の先輩でもある叔父アンソニーが長崎で没しています。フローレンスは日本に来る前から、梅光にご縁のあった先生だと言っていいでしょう。
1922年(大正11年)改革派の宣教師として来日し、1925年(大正14年)下関梅光女学院に着任。優れた英語教育者として評価が高く、卒業生の記憶にも残ります。1939年(昭和14年)、梅光を辞して横浜のフェリス女学院に移り、一旦帰米。
1947年(昭和22年)再来日し、翌48年(23年)梅光に帰任し、梅光の復興資金の調達に奔走するとともに、戦災を受けた生活困窮者への援助も熱心に行いました。アメリカから古着や食料品を支援物資として取り寄せ、生徒や地域の人たちに配ったことを覚えている人は多いでしょう。
1951年(昭和26年)丸山の講堂の再建の時も、ワルボードは資金集めに奔走しました。マッケンジー帰米後も教鞭をとり続け、幼稚園児の英語教育にも携わっています。
1960年(昭和35年)定年により梅光を退職し帰米。長年の功績に勲5等が授与されています。
1968年(昭和53年)10月1日、テキサス州のサンガ―マナー(老人介護施設)で没、享年73でした。
それぞれ永く記憶に残しておきたい「梅光の母たち」をご紹介しました。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)