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梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
この連載で皆様にお見せしているのは、2013年10月2日(水)~7日(月)まで下関大丸の7階で開催した「梅光100年のあゆみ」写真展で展示した写真です。
卒業生や在学生だけでなく、地域の方々がたくさん見に来て下さいました。地域に歴史を公開することで、梅光が下関に100年過ごさせていただいた感謝の一端をお届けできたのではないかと思います。
焼ける前の梅光はどんな学校だったのか、1923年(大正12年)に作られた最初の卒業アルバムから、当時の風景を見てみましょう。
写真1.物理館
写真2.宣教師館
物理館は物理教室が入っていたところからその名で呼ばれました。
宣教師館は文字通り宣教師の住居でした。本館と並んで、高い所に西洋館が立ち並ぶ風景は、細江から見上げるとさぞ目立ったことでしょう。
写真3.校内松林
松林の写真、洋服姿が廣津藤吉(1871-1960)、和服姿は藤山一雄(1889-1975)です。
この二人については、後の回でお話ししましょう。当時、丸山の上にはこんな松林があって、生徒や先生方の散策路、憩いの場所にもなっていました。一角にはベビーゴルフ場も作られていました。季節にはマツタケも採れたそうです。
写真4. 雨天体操場とテニスコート
雨天体操場は本館から山側に渡り廊下で繋がって建てられた建物でした。テニスコートの女学生が和服姿のところが、いかにも時代を感じさせますね。
写真5. 卒業式記念写真
大正12年の卒業生たちです。袴姿です、まだセーラー服ではありません。2列目の左寄りに写る白い服はおそらくチマチョゴリ、当時、半島と距離の近い下関には外地からの生徒が来ていた事が分かります。
写真6. 教職員
当時の先生方です。全員のお名前が分かると良いのですが、残念ながら分かっている先生は僅かですが、廣津藤吉、藤山一雄はお分かりですね。藤吉の横でフロックコートを着ているのが『梅光女学院史』を書いた黒木五郎(1871-1936)です。
開学当時に近い風景、楽しんでいただけたでしょうか。
次回から何回かにわたって、先生方をご紹介しましょう。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)