梅光学院高等学校同窓会
2014年10月03日

梅光100年の歩み 第4回 「黒木五郎」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

今回は校歌とかかわりの深い先生です。

 

写真1. 黒木五郎

_08_黒木五郎画像

 

黒木五郎は1871年(明治4年)3月15日、豊後臼杵の生まれです。幼少期から漢文を学び、1891年(明治21年)大分尋常師範学校を卒業後、大分県下小学校の教師となり、校長職も務めた教師一筋の人物です。教職に就きながらも間も漢文と仏典を学び続けたと聞きます。古典の教養豊かな人だったのでしょう
1903年(明治36年)、廣津藤吉に請われて梅香崎女学校に奉職。1910年(明治43年)頃、長崎教会で受洗、熱心な教育者であると同時に熱心なキリスト者となりました。藤吉とは同い年、お互いにうまが合ったようです。

 

1914年(大正3年)下関に梅光が誕生するに当たって、廣津藤吉と共に生徒を連れて長崎から移動し、新設校の整備と運営の中心者として活躍しました。

 

黒木五郎の大きな功績が2つあります。
一つ目は1915年(大正4年)、下関梅光女学院校歌を作詞します。曲はジェーン・M・ノードフ(1882-1970)が提供したとされていますが、彼女の作曲なのか、何か原曲があるのか、今でも分かりません。
作詞に当たって黒木が最初に着想した「我らの母校は山の上の城」の部分はマタイ伝5章13節―14節から採られたと思われます。
「爾曹ハ地の鹽なり鹽もし其味を失はゞ何を以か故の味に復さん。後は用なし外に棄てられて人に踐まるゝ而己。爾曹ハ世の光なし山の上に建てられたる城は隠ることを得ず」(新約全書.米国聖書会社.横浜,1881・明治14 p.9-10)
校歌は現在も変わることなく歌い継がれて、2015年には校歌100年を迎えます。

 

二つ目は『梅光女学院史』(1934)を刊行したことです。合同当時の生き証人として、黒木の記述は、初期の学院を知ることが出来る一級資料です。
中高短大の事務所で長く務められた黒木正一(1912-1995)・恵美(梅22)夫妻は五郎の養嗣子にあたります。
1936年(昭和11年)5月3日、下関で没。享年66でした。

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

梅光100年の歩み(連載)

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