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梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
2014年(平成26年)6月21日、東京支部総会でご紹介した写真の3回目、梅光を代表する先生です。
写真1. 初代院長廣津藤吉
廣津藤吉は、1871年(明治4年)3月13日、豊前中津の士族の家に生れました。1888年(明治21年)、受洗。当時、大分師範学校に在学していましたが、キリスト者であることを理由に招魂社(護国神社)参拝を拒否したことが問題となり、退学させられます。師範学校校長鎌田栄吉に、今後はキリスト者として生きろと励まされて、1889年(明治22年)長崎東山学院に入学します。中津の先輩坂文一(生没年未詳)に勧められて長崎に行きましたが、このとき、大分の宣教師S.H.ウェンライト(1863-1950)のアドバイスに従っていれば、同志社に進んで新島襄の教え子になっていたかもしれません。
東山学院の神学部を卒業した藤吉は、1887年(明治20年)に出来た梅香崎女学校の教員になり、1901年(明治34年)には齋藤實徳の後を継いで第3代の校長になります。
1914年(大正3年)下関梅光女学院創立院長に任命され、大正、昭和前期、戦中、戦後の長きにわたって、生涯を梅光における教育の発展に捧げたことは、皆様ご存じのとおりです。
女婿にあたる第2代福田八十楠と第5代広津信二郎が、さらに梅光を支え発展させてきました。
藤吉は多才な人物で、1916年(大正5年)下関に火山があったことを火山弾の発見により明らかにし、1924年(大正13年)校内に天体望遠鏡を備え、1925年(大正14年)にはラジオアンテナの設置、1927年(昭和2年)には学内に映写設備を講堂に設置するなど、教育設備の拡充に熱心でした。1929年(昭和4年)には温室を建造し、牧野富太郎と共に植物採集に出掛ける博物学者としての顔も持っています。
1960年(昭和35年)1月10日、下関で没。1月18日、丸山講堂で学院葬。享年88でした。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)