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元梅光女学院中学校・高等学校教諭、小田豊先生が8月15日に逝去されました。
先生が在職されたのは昭和40年代ですが、小田チンの愛称で親しまれ、体育の授業でお世話になりました。
小田先生は、1942年山口県に生まれ、1966年広島大学教育学部教育専攻科を修了されました。
梅光女学院を退職されてからは、滋賀大学教育学部助教授、教授として教鞭を執られた後、文部省に入省され、2004年には国立教育政策研究所次長に就任。2007年より国立特別支援教育総合研究所所長、理事長の要職を歴任され、障害のある子どもの教育的ニーズに対応した教育の実現に尽力されました。
2013年からは、聖徳大学児童学部児童学科大学院教授、関西国際大学客員教授 として再び教壇に立ち、後進の育成にも力を注がれました。
その他に、文部科学省初等中等教育局主任視学官、内閣府幼保一体化ワーキング委員、広島大学幼年教育研究施設客員研究員としても手腕を振るわれ、多数の著書を残しておられます。また、2013年春の叙勲で瑞宝中綬章を受章されました。
2016年5月 梅光学院同窓会東京支部総会・懇親会にて
昭和46年3月 梅光女学院中学校修学旅行(鹿児島県 磯庭園にて)
2年b組のクラス担任の代理で引率を担当された小田先生
ご遺体は献体され、24日にご自宅にお戻りになるそうです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
東京支部事務局
戦後74年、戦争を体験した方々が高齢化し、戦時中の記憶も薄れていく中、1年前にNHKのクローズアップ現代+で放送された「#あちこちのすずさん」には、映画 「この世界の片隅に」の主人公・すずさんのように、戦争を懸命に生き抜いた普通の人たちの体験が集まり、大きな反響がありました。NHKでは引き続き戦時中のエピソードを募集し、今年、さまざまな番組やネットを通して配信しています。
8月28日(水曜日)、「あさイチ」(午前8時15分~9時54分)で、下関空襲の頃のエピソードとして、当時 梅光女学院中学校において佐藤泰正先生の前任であり、寄宿舎の舎監でもあった水津 米先生(1889-1949)のことが話題として取り上げられます。
http://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/190828/1.html
ぜひご視聴ください!
【下関空襲特集】
◆ 同窓会東京支部会員の「#あちこちのすずさん」
◆ 戦中戦後の思い出(前編)・(後編) (2016年10月掲載)
◆ 下関空襲を題材にした梅光生制作のミュージカル映画
◆ 「隣人のゆくえ」 令和アンコール上映!
◆ 2019年9月14日(土)~20日(金) 池袋シネマロサ
◆ ※1週間限定モーニングショー
東京支部事務局
平成30年度の東京支部総会で上映するために制作したDVDをもっと多くの方に楽しんでいただけるよう、梅光の恩師、卒業生、梅光関係のみなさま限定で、貸出しできるようになりました。
平成30年度東京支部総会・懇親会(京王プラザホテル)
恩師や卒業生との和やかなインタビュー映像、旧東館や新館、講堂など丸山校舎の中の写真を、2011年前後の学院の思い出とともに、私のナレーションと、同級生による美しいピアノ演奏で15分間にまとめた内容です。
梅ケ峠から新館へ移設されたステンドグラス、今はベンチになっているモミの木も登場します。
予告編(40秒)を公開しています。
https://youtu.be/7eP6Qw25cIU
下関の同窓会室に2枚、また制作した江原のほうでも2枚 無料で貸出しできるDVDをご用意しています(梅光の恩師、卒業生、梅光関係のみなさま限定)。
ご希望のかたは同窓会または江原へご連絡ください。
梅光学院同窓会室 電話:083-227-1111(火、金の13:00~16:00在室)
江原〇〇〇〇〇〇 電話:083-268-1668(FAXもおなじく)
貸出し期間のめやすとして、1か月以内にご返却いただけたら幸いです。
短いDVDなので、何度も繰り返し再生して楽しめたと言ってくださる方もいらっしゃいました。
ぜひお手に取っていただき、ゆっくりとご覧ください。
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【江原千花 出演情報】
北九州芸術劇場ダンスクリエーション 「ギミックス」
〇北九州公演:北九州芸術劇場
〇〇〇〇2019年9月14日(土)〜15日(日)
〇宮崎公演: 宮崎県立芸術劇場
〇〇〇〇2019年9月21日(土)〜22日(日)
〇熊本公演: ながす未来館
〇〇〇〇2019年9月29日(日)
「林 伊佐緒 ふるさとコンサート」朗読出演
10月5日(土)14:00~ 下関市立勝山公民館 音楽ホール
生演奏創作音楽劇「ヤマガヒ」再演
12月21日(土)~22日(日) 山梨県立県民文化ホール
詳しくはこちら
高66音 江原千花
2018年8月26日(日)、元梅光学院大学教授 中山 敦 先生の傘寿をお祝いするコンサート「中山先生を囲む会」を開催いたします。
中山先生は、梅光女学院大学(現 梅光学院大学)コーラス部「セシル・コール」および、梅光女学院短期大学部コーラス部「コール・クヴェレ」を創立時より指導してこられ、その他にも北九州、福岡、山口の合唱団の指導者、指揮者としてエネルギッシュに活動されています。それのみならず、「一人でも僕を必要としているところ人がいて音楽ができるなら、どこにでも行きます」とおっしゃって、今回、関東の演奏会のために九州からお越しになりご指導をして下さっています。
私の短大時代の思い出と言えば、「クヴェレ一色」でした。思い起こせば、本当によき友人、よき先生方、よき指導者そして協力してくださった梅光の事務の方々に恵まれていたと、この年齢になって感じます。昔は、現在の大学の図書館の裏手に各クラブの部室がありました。部室といっても、プレハブの狭い部屋で、空き時間になると各クラブの部員が集まり、どこの部屋からも笑い声がこぼれていました。
春と夏の合宿にも先生はお付き合いくださり、一日中歌い、歌う曲の歌詞の解釈や読み方、作曲家や作詞家の思いや、作成された時代背景を話して考えて歌に取り組んでいました。私は、学生時代は、指揮者をやっていましたので、九工大や歯科大それから産業医科大学の指揮者と指揮法の勉強をおこなったりして、短い期間でしたが、必死で取り組んでいました。
音楽をやる人、特に歌をやる方は大変個性的な方が多いのでぶつかることもありましたが、中山先生の指導で歌うと、そのようなわだかまりも溶け合って、一つの美しいハーモニーが生まれるのが本当に不思議でした。まあ、私達は、“中山マジック”とひそかに言っていました。何があっても心を重ねあうということを知らないうちに教えられ、体に染みついていたのだと思います。
今回のコンサートは、そんな中山先生に対して傘寿のお祝いと今迄様々なチャンスをくださった感謝の気持ちをこめて、関東地区にいる梅光の卒業生と、第1回からジョイントコンサートに賛助くださっている九州工業大学の卒業生が実行委員となって2年前から計画してきたものです。伴奏の岡添正子さんも梅光の同窓生(高33音)です。
現在、男性19名、女性26名で毎月1回の練習をしていますが、梅光の同窓生はもちろん、中山先生ゆかりの方 及び 今回の演目に惹かれた方がいらっしゃいましたら是非ご参加ください。
現在決定している練習日程は以下のとおりです:
6月23日(土)12時~16時 女声及び混声@日吉区民センター
7月28日(土)15時~19時半 混声@青葉台フィリアホール練習室
7月29日(日)13時~17時 女声@大倉山記念館
8月18日(土)11時~16時 女声及び混声@大倉山記念館
8月25日(土)13時~17時 GP@鶴見公会堂
8月26日(日)15時~17時 リハーサル@サルビアホールリハーサル室
中山先生の素晴らしい音楽と私共の歌声を聴きにいらしていただければ幸いです。
連絡先:西田聖子(短英21) 090-6536-4241
日時 : 2018年8月26日(日)19:30開演
場所 : 鶴見区文化センター サルビアホール
曲目 : フォーレ作曲「レクイエム」(J.ラター版)
曲目 : 小林秀雄作曲「落葉松」
曲目 : 堀口大学作詩 清水 脩 作曲
曲目 : 曲目:「月光とピエロ」より ”秋のピエロ”、Sea Shanty 他
指揮 : 中山 敦、岡 秀悟
伴奏 : 岡添正子(高33音)
独唱 : 馬場陽子(ソプラノ)、佐藤喜義(バリトン)
全席自由 入場無料
※入場に際し整理券を配布します。お問合せは西田(090-6536-4241)まで
中山 敦 プロフィール
九州大学男声合唱団コールアカデミーの学生指揮を務めたことを契機に、指揮者の道を歩む。 米倉美枝、安永武一郎、濱田徳昭、團伊玖磨の各氏のもとで練習指揮をしながら指揮法を学ぶ。
バロック、古典派はもちろんのことあらゆる時代の宗教曲に精通し、精神性の深い指揮は常に聴衆を魅了し、高い評価を得ている。 また、現代音楽にも造詣が深く、常に妥協のないアカデミックなスタンスで取組み、その幅広い音楽活動ぶりには目を見張るものがある。
北九州記念混声合唱団(1982年~)、山口市民合唱団「のんた」(1982年~)、福岡シンフォニック合唱団(1993年~)他、北九州、下関の多くの大学合唱団等でも精力的に指揮活動を行っている。
元梅光学院大学教授 賛美歌学専攻。 メサイア アナリーゼ I 、メサイア アナリーゼ Ⅱ、蓋井島の歌・亥の子祭の歌 等の論文を発表している。
コール・クヴェレ
1964年 梅光女学院大学短期大学部コーラス部として声楽家中尾美恵子先生と創部。その後コール・クヴェレ(歌の泉)と名付け、声楽家であり指揮者の原口すま子先生とともに、邦人の女声合唱曲「葡萄の歌」「心の四季」などを中心に演奏。2006年、短大閉学にともない廃部となる。
セシル・コール
1974年 顧問で指揮者の中山敦先生と3名の学生により「梅光女学院大学コーラス同好会」として創部。「歌の女神 聖チェチーリア」からセシル・コールと名付けられ、礼拝では聖歌隊も兼ねた。2001年の共学化により混声合唱団となったが、団の名前はそのまま、現在も活動を続けている。
短英21 西田聖子
2017年秋のこと、
「梅光学院の象徴ともいえる歴史あるセーラー服が、大変残念なことに、2017年度末で廃止されることになりました。下関の街から、セーラー服姿の梅光生のいる風景が失われてしまうことを惜しみ、また、地域の皆様にも親しまれてきた大切な制服を記録するため、「下関の街と梅光のセーラー服」をテーマに写真集を制作しています。発行は2018年2月の予定です。
写真集前半は今の在校生を撮り下ろした写真を掲載しますが、後半はOGの皆様の思い出の写真を掲載し、制服の歴史や変遷をたどります。OGの皆様、ぜひ写真をご提供ください。また、ご家族ご友人に梅光OGのいる方、情報のシェアをお願いします。」
という、相山華子(高45・旧姓 安成)さんの呼びかけにより、『梅光セーラー服写真集制作プロジェクト』が発足。来月の発刊に向けていよいよ大詰めです。
このたび、相山さんのお知り合いのデザイナーが素敵なポスターを制作してくださいました。それぞれ懐かしい風景と共に校歌の歌詞が載っています。
現在の制服が制定されたのは1958年4月。エレガントでお洒落なセーラー服は梅光生としてあるべき姿の象徴であり、生徒達の誇りでもあります。その制服が、2018年3月をもって60年の歴史を閉じようとしています。この制服に手を通した1人1人の想いと思い出を込めて、この写真集をお届けいたします。
【梅光女学院/梅光学院 セーラー服の歴史】
『梅光セーラー服写真集制作プロジェクト』公式ページ
https://www.facebook.com/groups/1703063583078221/
問い合わせ・購入申し込み先
梅光制服写真集プロジェクト TEL 080-3201-5545 MAIL baikophotobook@gmail.com
発起人、制作・監修 相山華子(あいやまはなこ)
インタビューカンパニーmimi代表。1974年下関市生まれ。
慶応義塾大学環境情報学部卒業後、山口放送(日本テレビ系)に入社。報道部記者として山口県内各地を取材。同社退社後、拠点を東京に移し、フリーランスのライター・エディターとして活動。政治、ビジネスから食文化、伝統工芸まで幅広く取材。公益財団法人防長倶楽部で機関誌編集人も務める。
中学高校校長、短期大学学長、大学学長、そして学院長を歴任されました中野新治先生が、70歳定年をお迎えになり、去る3月31日、学院長職を退任なさいました。42年にわたる在職中にお世話になった学生、生徒は数知れません。
東京支部総会にも何度もご出席くださり、その都度学院の現状などお話しいただきました。お目にかかるのを楽しみにしておられた同窓生も多いことでしょう。
中野先生、長い間お世話になりました。
本当にありがとうございました。
尚、中野学院長の後任は、樋口紀子大学長が学院長を兼任なさいます。
東京支部事務局
東京支部のホームページもリンクされています。
東京支部事務局
梅光学院を舞台に、中学校高等学校の生徒40人が制作した自主映画「隣人のゆくえ」が、第17回TAMA NEW WAVE コンペティションで、応募114作品の中からノミネート5作品に選ばれました。11月26日(土)に多摩市立関戸公民館ヴィータホールで上映、グランプリ投票が行われます。
監督の 柴口 勲 氏は下関市在住の会社員で、数々の自主映画を手掛けています。今回の作品は、下関大空襲直後の市街地の様子を撮影した写真との出会いをきっかけに構想されました。しかし、単なる記録映画ではなく、エンターテイメント作品にしたい。という監督の思いがあり、梅光生の主人公がミュージカル部に通ううちに戦中の下関の歴史を知っていく物語になっています。
制作は、応募してきたミュージカル部の部員を中心に、出演、音楽、振り付け、撮影、照明、メークなど全て生徒が主体となって一から手掛け、作中で使用した楽曲は音楽科の生徒が作曲しています。
梅光学院生制作の自主映画 若手作家コンペで選出 (山口新聞 2016年11月3日掲載)
監督を動かした写真は、憲兵に逮捕される危険を顧みず、記録を残したい一心で一市民である故・上垣内茂夫さんが撮影したものです。後にわかったことですが、出演希望者の中にひ孫の上垣内愛佳さんがいました。このような偶然があるでしょうか。ちなみに、愛佳さんのお母様もおばあ様も梅光のご出身だそうです。
上垣内茂夫さんが決死の覚悟で撮影した空襲後の下関市中心街
読売新聞(YOMIURI ONLINE)より
焦土切り取る 市民の目 (読売新聞 YOMIURI ONLINE 2016年10月17日掲載)
【上映スケジュール(東京)】
日時:11月6日(日)13:00~
場所:東京芸術センター2F ブルースタジオ
日時:11月6日(日)15:30~
場所:ユナイテッド・シネマ豊洲
日時:11月26日(土)12:15~
場所:関戸公民館ヴィータホール
【柴口 勲 監督からのメッセージ】
◎TAMA映画フォーラムは地域最大級の映画祭ともされ「TAMA映画賞」はこれまで妻夫木聡、綾野剛、松田龍平、神木隆之介、大泉洋、役所広司、綾瀬はるか、広瀬すず、宮崎あおい、二階堂ふみ、真木よう子、能年玲奈さんなどが受賞者です。
◎本作は梅光でのワークショップから生まれ、出演者は勿論、スタッフに至るまで全てが梅光の在校生(または関係者)で作られました。純血でない者は監督(私)だけです。物語も梅光の歴史と精神を汲んだものであり、まさに梅光映画となっています。今夏の145周年記念式典で上映された際は、在校生から80代の同窓会生、そして先生方まで涙を流され祝福してくれました。
◎私の願いとしては、いや私たちの願いとしては、ぜひ東京で上映されるこの機会に同窓会の皆様に観て頂きたいと思っています。特に皆様の為に作った訳ではありませんが、この映画をもっとも届けなければならない方が同窓会の皆様であることは疑いようのないことだからです。
『隣人のゆくえ』梅光開学145年上映を終えて(上巻)
『隣人のゆくえ』梅光開学145年上映を終えて(下巻)
「隣人のゆくえ」-予告編- (Youtube動画)
東京支部事務局
(前編より続く)
◯このような小学校時代を過ごしたので、梅光女学院に入学したときは天にも昇る心地がした。体罰はなく、暖かい服やコートを着ることもできたし、梅光の校舎は山の上にあって、どれも瀟洒で美しく、花の咲き乱れる校庭は、夢のような毎日を予測させてくれたからだ。しかし、楽しいことばかりではなかった。
◯梅光女学院での一年生の日々は終戦の前の年に当たり、連日、警戒警報と空襲警報が鳴り響いて、まともに授業が受けられる日はしだいに少なくなっていった。関門海峡に機雷を投下するアメリカの艦載機や爆撃機の来襲が度重なってきたからだ。
戦前の丸山校舎全景
ケネディー館
講堂
◯そして、やがて私たちにも学徒動員の命令がくだった。教室は軍服を縫う工場と化し、一年生だったので、私たちは軍服のボタン付けをすることになった。二、三年上の上級生たちは、毎朝セーラー服にモンペ、その上にゲートルを巻いて、前田や長府にあった工場に通って、旋盤工として働いた。
◯また、軍服縫いをしない日々、私たちは武久の海岸で松脂取りをさせられた。松の木の幹にY字型の傷をつけ、缶詰のカラをくくりつけて、そのなかに松脂がたまるようにするのだ。こうして集めた松脂を精製して飛行機を飛ばすとのことだった。私は連日こういう作業をしながら、こんな松脂で本当にあの大きな飛行機を飛ばすことができるのだろうかと、子供心に疑問を抱いたことを思い出す。
◯しかし、こういう生活を根底から突き崩す日が到来した。一九四五年(昭和二十年)六月二十九日と七月二日の二度にわたる下関大空襲である。最初の空襲の日、私の家は山の高台にあったので、街中が一気に燃え上がるさまが見えた。聞くところによると、最初に石油を撒いてから焼夷弾を落としたとのことで、一瞬にして街中が火の海になった。それは、身震いするほど恐ろしい凄絶な眺めであると同時に、冒涜的なことながらこの上なく美しい景色でもあった。最初の空襲で中心街の大半が焼け、二回目の空襲で残りの大部分が焼けた。二度目のときは私たちの頭上にも焼夷弾が降り注ぎ、私の家も梅光もすべて灰燼に帰した。このとき、私たち一家も家を捨てて山のなかに避難しなければならなくなった。以前からそれぞれの家には防空壕が作られていたが、私たちが庭先に掘られた横穴の防空壕に避難していたら、おそらく蒸し焼きになったことだろう。こうして山のくぼみに身をひそめて夜明けを待ったが、ずっしりと重い爆音を響かせて頭上を飛ぶグラマン爆撃機の恐怖は一生忘れられないかもしれない。
<入江町、細江町あたり>(撮影者:上垣内 茂夫氏)
手前の道をたどると丸山町、右上方の丘は日和山で、光明寺の屋根が見える。
(総務省ホームページより)
<(昭和20年)西細江町あたり> (撮影者:上垣内 茂夫氏)
海峡沿いの建物は、右が山陽ホテル、左が下関警察署と旧山陽百貨店。
対岸は門司。(総務省ホームページより)
◯私たちは住む家を失ったので福岡県の田舎にあった祖母の家で二か月を過ごしたが、終戦になって人々が廃墟から立ち上がる情勢になったのに合わせて、焼け残った地域の貸家を探して下関に戻ることになった。梅光の二年生の秋のことだ。梅光も一棟を残して全焼したため、授業は全然行なわれていなかったが、しだいに付近のカトリック教会やメソジスト教会を借りて、少しずつ授業が行なわれるようになった。樽見先生の「生物」や、べらんめえ口調が出てくる村上省三先生の「社会」の授業などを覚えている。
村上省三先生
◯だが、その年か翌年あたりから「作業」が始まった。朝、学校に行って礼拝が終わると、すぐ、来る日も来る日も作業が続いた。どちらからどちらへ運んだのか、よく覚えていないが、要するに、丸山町の梅光から大畠の敷地まで、あるいはその逆の行程で、廃材の材木運びをするのである。四~五メートルの柱なら二人で、それ以上に長いものは三人で運び、あるときには釘抜きを使って、廃材に刺さった釘を抜く。とくに難しいのは、三角形をした屋根の合掌作りを運ぶときで、三角形の数ヶ所に生徒が配置され、男性の先生が付き添って注意を与えながら、坂を登ったり下ったりして、大畠まで運んだ。
◯こうした努力のおかげか、やがて大畠の兵舎跡にバラックの校舎ができたが、窓はあってもガラスが入っていない吹きさらしの校舎で、冬はコートを着ていてもまだ寒かった覚えがある。丸山町の梅光の敷地にバラックの校舎ができたのは、女学校の四年生か五年生のときだったような気がする。このときはまだ旧制だったので、五年で卒業してもよく、新しく出来た高等学校の三年度に編入してもよかった。私は進学のほうを選んだ。このときになってようやく、女性も大学に進学することができるようになり、そのためには、高等学校を卒業する必要があったからだ。
高等学校時代 戦後の授業風景(丸山校舎)
◯本格的な授業が受けられるようになったのは、女学校最後の年と高校三年になってからだった。いちばん印象に残っているのは、マッケンジー先生の英語の授業で、語り直しのテキストながら、シェイクスピアの『十二夜』を読んだ。一章ずつテキストを読んで、先生が本文の説明をなさったあと、巻末にあった Question and Answer の練習問題をする だけだが、これが大変おもしろく、私はシェイクスピアの楽しさに目を開かせられた。それで、図書館に通って坪内逍遥訳のシェイクスピア全集を読み通した。
マッケンジー先生
ジョーンズ先生とマッケンジー先生 着物姿のジョーンズ先生
◯広津信二郎先生の「国語」の授業も興味深く、「ロダンの遺言」の授業のさまは今でもときどき思い出す。日高先生の「数学」も楽しく、三角や微分積分の問題を解きながら、本当に知識を学んでいるという気がしたものだ。しかし、後で伺ったところによると、戦前は女性に微分積分は要らないということで、戦後初めて女子高校のカリキュラムにも微分積分が取り入れられたということだった。
広津信二郎先生
1947年~48年(昭和22年~23年)当時の丸山校舎の風景
◯語りたいことはまだまだ沢山あるが、私の梅光時代は戦争の思い出と切り離して考えることはできない。つらく苦しいことも多かったが、楽しく、胸の踊るようなこともあった。そして、私の人格形成には梅光の力が大きく作用したと言えるかもしれない。戦中戦後の苦しい時代は長く、敗戦の思いはつらかったが、戦争が終わって幸いだったことは山ほどある。女性も大学で学ぶことが許され、参政権も与えられた。テレビという便利なものが出てきたのは、私が二十代に入ってからだ。航空機の発達で世界の距離が縮まり、コンピューターなどが世界を制御する時代が来ようとは、あの頃夢にも思わなかった。時は移り、環境は変わる。しかし、人の心は変わるのか、変わらないのか、それをしきりに考えるこの頃である。
高02 大社淑子
大社淑子氏プロフィール
日本の英文学者、早稲田大学名誉教授。
1931年福岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程中退。早大法学部教授を経て、2002年定年後名誉教授に就任。
英文学を専攻し、現代の英国女性作家を研究、翻訳。特に米国黒人女性作家のトニ・モリスンの翻訳で知られるが、アイヴィ・コンプトン=バーネットの研究書も出している。
◯私は昭和六年(一九三一年)九月二十五日に生まれた。満州事変が勃発したのが 一九三一年九月十八日だから、私の生涯は十五年戦争と足並みを揃えて始まったことになる。
もう大東亜戦争=第二次世界大戦を体験した世代が数少なくなっているので、うろ覚えながら私の若かった日々の思い出を記すことにも、一片の意義はあるかもしれない。
◯私が生まれたのは大里、つまり現在の北九州市だが、その後父の勤務先の都合で下関に引っ越し、初等教育は名池小学校で、中等教育は梅光女学院で受けた。当時、小学校は国民学校と呼ばれ、梅光は女学校だった。女性が入学できる大学はなく、女子教育の最高は専門学校止まりで、もちろん女性に選挙権はなかった。だから、当時の女性たちがどんなに深い挫折感に悩まされていたかは、容易に想像できよう。
◯国民学校時代は、日本が昭和十二年に起こったシナ事変を経て、昭和十六年には大東亜戦争に突入するという大変な時代で、六年間を通して色濃く戦時色に染まっていた。同時に、私にとってはいろんな意味で暗黒時代でもあった。
◯明るい電灯に照らされ、色とりどりの華やかなネオンに彩どられた美しい夜の街の印象は、ごく幼かった日々の思い出にすぎない。文字を覚えて、沢山の本を読みたくなった時期は、灯火管制の下での暗く、陰気で、不自由な夜が延々と続く、息がつまりそうな日々の連鎖だった。電灯はすべて黒い布で覆うか、傘をかぶせなければならず、真下にほんのりと白い円を描くだけ。それでも、一筋のかすかな光が外に洩れようものなら、たえず見回りを続けている町内会の防空対策委員の厳しい叱責と「非国民」のレッテルを覚悟しなければならない結果となる。
◯和菓子やケーキの類が店頭から姿を消したのは、国民学校一~二年生の頃ではなかったかと思う。砂糖はもちろん統制で手に入りがたく、この頃から食料をはじめほとんどすべてのものが配給制になった。配給制になっていないものはほとんどが、長い行列をして買わねばならなかった。鮭の切り身とか他の食品を売っていると聞くと、すぐ走り出て行列に並んだものだが、それも一~二時間立ちんぼしたあとで、もう品物がなくなりました、と追い返されることはたびたびあった。そういうわけで、街を歩いていて、行列を見ると、売っているものが帯占めのような不用品であろうと、エプロンであろうと、何でも買わなければと、行列に並ぶ癖がついた。学用品もその例に洩れず、勝手には買えなかった。鉛筆を買いたければ、いま使っている鉛筆が五センチ以下の短いもので、もうこれ以上書けないということを先生に認めてもらわねばならず、ノートの場合は最後のページまで書きつぶされていることを先生に証明してもらわなければならなかった。
◯しかし、物資以上に不足していたものは、もちろん食べものだった。お米は厳しく統制され、一日一人二合四勺がやがて二合一勺となり、お粥や雑炊にして食べのべるのが普通だった。闇市場では、高額の金を出せば多少は買えたものの、見つかれば刑務所行き覚悟しなければならない。買い出しに行っても同じこと、家に帰りつくまで警察や軍隊に捕まるのではないかと戦々兢々の有様だった。それも、最初のうちは近くの農家で母の絹の着物などを差し出すとお米が手に入ったが、のちになると、一枚の晴れ着を出しても大根二、三本しか買えなくなった。だから、少しの土地があればみんなが南瓜や胡瓜を植え、実が食べられるときは大変な幸せ、ふだんは葉や茎まで食べた。しかし、どうにも我慢できなかったものに海藻麺がある。これは、戦争の終わり近く食料事情が極端に厳しくなった折に配給されたもので、昆布やワカメではなく、浜辺に打ち上げられた海藻や藻を麺の形に作ったものだ。茶色のズルズル、グミグミしたもので、どんなに工夫しても味がつかず、食べると喉につまって嘔吐したくなる。私はどうしてもこれを食べることができず、母からこれ以上ないほど叱責されたが、海藻麺が食卓にのぼったときは絶食することにした。
◯しかし、食料不足よりつらいことが、いくつかあった。冬、どんなに寒いときでも三枚以上着てはならず、外套などは着ることが許されなかった。つまり、スリップにシャツ一枚、その上にセーラー服一枚で冬を過ごさねばならなかったのだ。靴下一枚の足はいつも凍えており、歯の根はいつもガチガチ鳴っていた。
◯それより腹立たしく屈辱的だったのは、寒稽古と称して、時折上半身は裸で、裸足、黒い体操用のブルマーだけのひどい姿で、下関の街を走らされたことだ。寒くて凍えて痛くなった足に、道路の上の砂利や小石が痛く、つらいのと恥ずかしいのとで、文字通り苦行をさせられた感がある。私はどういうわけか晩稲で、六年生になってもペッタンコの胸をしていたので子供に近かったが、同級生や上級生の半数以上はふくらみかけた胸を剥き出しにして衆人環視のなかを走らねばならず、私以上に屈辱感を覚えたにちがいない。
◯それに劣らず、私の初等教育を暗くしていたのは、体罰だった。日本の軍隊がたえざる体罰で成り立っていたためか、それが学園にも持ちこまれ、男性教師のみならず女の先生までが生徒にビンタを食らわせるので、生きた心地はしなかった。もちろん半数近くの先生方は、絶対に体罰は加えなかったように思う。しかし、私たちのクラスではなかったが、ある若くて、いかつい男性教師が竹刀で男子生徒をお仕置きしたとか、柱にくくりつけて殴ったとかいう話を聞くと、背筋が寒くなった。一年から六年までを通じて、一度も体罰を受けなかった生徒は、私を含め一クラスに数人しかいなかったような気がする。
◯また「教練」という授業があって、陸軍の士官が先生になって、薙刀の訓練や、ルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石のポスターにボールを投げつける練習などをさせられた。私はそのポスターの絵を描かされたが、「教練」は大嫌いだった。
◯だから、勉強は好きで成績はよかったものの、上のような事情で、私は学校に行くのが嫌で嫌で、休みの日が待遠しくてならなかった。しかし、高学年に近くなると、警戒警報と空襲警報の繰り返しが多くなってきた。警戒警報は一連の連続的サイレンだが、空襲警報は断続的に不気味に鳴り響き、いつも恐怖の戦慄を覚えさせたものだ。学校では、警戒警報が鳴ると、授業を止めて、生徒は急いで家に帰り、警報が解除になると、また学校に戻ることになっていた。だから、試験勉強などはしたことがない。元来怠け者で、あまり試験勉強はしないほうだったが、準備不足であっても警戒警報を当てにして心安らかに登校すると、なんとか予想通りになるのだった。
(後編に続く)
高02 大社淑子
11月30日午後5時56分に虚血性心疾患のため、ご召天されました。26日に98歳のお誕生日を迎えられたばかりでした。心から哀悼の意を表します。
前夜式は12月1日、葬儀は2日に、日本キリスト教団下関教会にて執り行われました。喪主は奥様の亰先生でした。
告別式に参りましたが、やはり、ご本人とご遺族のご希望で、お花代、供物、献花等ご辞退いたします。との事でした。礼拝のみの、花を手向けることもない、とてもシンプルなキリスト者らしい告別式でした。
礼拝後、お顔を拝見いたしましたが、最後にお目にかかったそのまま、眠っておられるようでした。椅子に座ったまま、眠るようにというご最後だったようです。
尚、2016年1月23日(土)13時30分より、梅光学院大学 スタージェスホール(下関市向洋町1丁目1番1号)において、梅光学院主催の「お別れの会」が開催されます。
2014年6月7日 梅光学院下関開学100周年記念レセプションでのご挨拶
高27 島村善子(旧姓 中西)
去る11月20日、丸山校舎においてクリスマスイルミネーションの点灯式が行われました。12月25日まで、17時~22時の間点灯しております。
昨年、下関開学百周年を記念し、梅光学院中学校・高等学校生徒の活動資金援助として寄付することを目的として、PTA役員有志で「梅光キーホルダー」を企画販売いたしました。東京支部の懇親会でも販売にご協力くださり誠にありがとうございました。おかげさまで寄付金が約40万ほど集まり、有志メンバーと話し合って今年度から丸山校で飾るイルミネーションを新しく寄贈させていただきました。
今年度の中学高校のクリスマス礼拝は19日です。もしお越しの際は是非ご覧ください。
もう一度御礼申し上げます。
皆さまのご協力に感謝いたします。ありがとうございました。
梅光学院中学校・高等学校PTA副会長 今道裕美(高42)
皆様、こんにちは。
ご無沙汰しております。10月に入ろうかというのに、下関はまだ暑い日が続いています。
さて、今週から始まったNHKの朝ドラ「あさが来た」の主人公廣岡淺子が、梅光に来ていたってご存じでしょうか?
1914年(大正3年)6月5日の開院式典の来賓の中に、廣岡淺子の名前があります。県知事代理、市長代理といったお決まりの来賓の他に、当日の祝辞を述べた来賓の一人が廣岡淺子です。どんなお話をしたのか、名前は残っていても、話の内容は残っていないので、残念ですが分かりません。激動の明治を女性実業家として生き抜いた人の言葉は、きっと、生まれたばかりの梅光の若い女学生たちに、強い印象を残したでしょう。
廣岡淺子は、日本女子大学設立の協力者でした。その日本女子大を作ったのは、山口県吉敷出身の成瀬仁蔵です。成瀬は、梅光の前身光城女学院の創立者、吉敷出身の服部章蔵の後輩にあたります。淺子は宮川経輝から洗礼を受けてクリスチャンになりました。
建築家ヴォーリスの後援者でもあり(大学のスタージェスホールはヴォーリス設計事務所の作品です)、晩年には市川房江や村岡花子とも交流があった女性です。
さらに、この開院式典には、現在も記憶される人たちが来賓として名を連ねています。
この人は、門司港にあった九州鉄道院の管理局長、出来たばかりの門司港駅の隣に管理局の建物がありました(現存しています)。大儀見元一郎から洗礼を受けたクリスチャンです。イギリスに港湾研究のために留学していますが、その下宿先で一緒だったのが夏目漱石。漱石の随筆『過去の匂い』に長尾が「K君」として出てきます。
現在横浜にある森村学園を創設した森村市佐衛門です。小倉に日本陶器小倉工場(後のTOTO)が出来るのは1916年ですが、その前に、創業者森村は梅光にやってきています。彼は日本女子大学や慶應義塾に多額の寄付をするなど、日本の教育に貢献しました。晩年にはクリスチャンになっています。
熊本バンドのメンバーで、同志社大学の一期生。宮川も服部章蔵と間接的に関係があります。彼に牧師資格を授けたのは(按手礼と言います)、服部章蔵、成瀬仁蔵と同じく、吉敷出身の澤山保羅という人物。澤山は服部と共に幕末の山口県内で幕府軍と戦った人でしたが、アメリカ留学を経てクリスチャンになり、大阪に梅花女学院を創設しています。
富海松兵衛(下関教会長老)
唐戸にあった富海商会、錦波楼の主人、服部章蔵が建てた下関教会の最初の教会員の一人です。
こうしてみると、日本女子大学の関係者、また、服部章蔵と縁のある人たちがたくさん、下関梅光女学院の誕生を祝ってくれたことが分かります。服部章蔵は1848年生、廣岡淺子は1849年生、同時代人です。服部は大河ドラマ「花燃ゆ」の久坂玄瑞たちと共に禁門の変(蛤御門の変)に長州軍の一人として参加するのですが、幸いに生き延びて吉敷に戻ってきました。もし、あの時、久坂と共に戦死していたら、梅光は生まれていなかったかもしれません。
100年の歴史の中には、まだまだ面白いお話がありそうです。見つけたら、またお知らせしましょうね。
9月29日
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
山口県での放送ですが、梅光学院大学 受験生応援サイト Baiko Smiles! や、YouTube で公開されています。県外の方にもぜひご紹介ください。
梅光学院大学のテレビコマーシャル「学生生活充実」篇 (YouTube)
東京支部事務局
梅光学院の下関開学100年を迎えるにあたり、大学書道課程の卒業生と在学生が一堂に会した書作展を開催することになりました。
梅光学院大学の書道課程は、教育学部ではない大学には珍しい専門課程として、1973年(昭和48年)に、梅光の長崎開学140周年を記念して開設されました。2013年には課程設立40年を迎え、書家として活躍する同窓生や、中・高の書道教員として活躍する卒業生を、長年にわたって送り出しています。
記念の年に、41年目を迎える書道課程の、学びと活躍の歴史を多くの方々にお見せするとともに、さらなる発展の場にしたいと思います。(梅光学院下関開学100年事業委員会 / 梅光学院大学 書道課程 「出展募集のお知らせ」より抜粋)
日時 : 平成26年9月5日(金)~9月7日(日)
9月5日(金)13:00~17:00
9月6日(土)10:00~17:00
9月7日(日)10:00~16:00
場所 : 下関市民会館 展示ホール
入場料 : 無料
梅光同窓生ならではの作品の数々が展示されます。芸術の秋、書の心に触れてみてはいかがでしょうか。
皆様お誘い合わせの上ぜひお立ち寄りください。
大日10・院日5 大塚順子(旧姓 木下)
梅光学院同窓会誌「梅光」の第46号が発送されました。今年は下関開学100年記念特集号のため、例年より遅い発送です。
【訂正】
本誌の東京支部総会報告の執筆者 海野麻美子(高21)さんの
お名前が抜けておりましたので、ここにご報告いたします。
お手元に届かない方は、本部の名簿が転居先不明になっていますので、同窓会室にご連絡ください(東京支部と本部は名簿が別です。最近は支部にいただいた住所変更は本部に連絡をしていますが、それ以前につきましては直接お願いいたします)。
梅光学院同窓会
〒750-8511 山口県下関市向洋町1-1-1
TEL 083-227-1000 FAX 083-227-1100
E-mail: dousoukai@baiko.ac.jp
バックナンバーは、第45号までの復刻版が刊行されています。1セット5,000円で、会誌同封の振込用紙にて申し込めます(残部なくなり次第打切)。
東京支部事務局
本年は梅光学院下関開学100周年にあたり、下関では下記の通り様々な記念行事が企画されています。
皆様はじめまして。
今年度 同窓会東京支部当番学年の大鹿由美(高31/短英16)と申します。同期の三木さん、有村さんと共に今年の同窓会開催にむけて、心を込めて準備を進めています。
さて、今回、父の三回忌法要があり、下関へ帰省してきました。帰省中、同窓会開催にむけて、いろいろと取材させていただく為、去る2月7日、東京支部執行部の島村さん(現在下関在住)と共に、東駅にある梅光学院大学を訪問してきました。私が通っていた梅光女学院大学短期大学部があった場所です。
訪問時には、アドミッションセンターの柴田さん。学院資料室、豊田室長。学院史料管理委員長、図書館学課程主任、湯浅先生に、お心温かくお迎えいただき、懐かしの学舎訪問は、感謝と感動の気持ちで胸いっぱいとなりました。
〓梅光学院大学キャンパス〓
帰省のたび、素晴らしい欧風様式の学舎・・・ あの建物は何だろう? 講堂かな? と、車の中からいつもいつも思っていました。
33年ぶりにキャンパス内に立ちました。
建物すべてが欧風様式の学舎で、うっとりするほど素敵な建物ばかり。
在学中、講堂だった場所は、「スタージェスホール」となっていました。暖かな光を映し出すステンドグラスが、壁四面にあり、このステンドグラスは、主イエスキリストの言葉「道.命.真理.光」をテーマに製作されたもので、それはそれは素晴らしいものでした。
そこで、素敵なハプニングが! 豊田室長がオルガン演奏をしながら讃美歌を披露してくださいました。湯浅先生もご一緒にお歌いくださり、私の気持ちは、梅光生にタイムスリップしたようなそれはそれは幸せな時間でした。豊田室長。湯浅先生素晴らしいプレゼントをありがとうございました。
博物館では、昨年、下関大丸で開催された「梅光学院100年記念写真展」を縮小したかたちで、貴重な写真の数々、思い出の品の数々が展示されていました。どれもこれも、ずっと見ていたいほど、もう胸いっぱいでした。
私は、在学中、梅光の歴史をそんなに知っていなかった自分を恥じ悔やみ、そして、53歳になった今、あらためて梅光の歴史を知ったことを心の底からほんとに嬉しくありがたく思い、梅光の生徒だった自分を誇りに思いました。
この博物館は、大学に連絡をとれば、見学可能とのことです。皆様も帰省の時、お訪ねになってはいかがでしょうか。きっときっと幸せな時間を過ごされることと確信します。
梅光学院大学博物館 http://www.baiko.ac.jp/university/museum
高校短大を卒業して、33年ぶりの懐かしの学舎の訪問・・・
梅光学院は、私を優しく温かく迎えてくれました。
下関に帰れば、家族が待っている。友人が待っている。
そして、梅光学院が待っていてくれる。
これからの帰省が、また楽しみでなりません。
高31/短英16 大鹿由美(旧姓 弟子丸)
10月6日に写真展を見てきました。
日曜日だったこともあり、会場は多くの来場者で賑わっていました。「母が梅光の卒業生です」とおっしゃる年配の男性の姿もありました。今は亡きお母様の誇りが息子さんの心にも受け継がれているのだなあと感じました。
例年より早かった梅雨の季節もどうやら終わり、暑い夏がやって来ました。皆様にはお変わりなくお過ごしの事と存じます。
5月29日に行なわれた日比谷松本楼での支部総会では大変お世話になりました。緑したたる会場で、梅光の香りを変ることなく持っておられる皆様方とご一緒の時を持つことができ、改めて梅光に連なる者の一人であることの幸せさを感じました。そして、皆様のためにも、学院再興に力を尽くさねばと思いを深めて帰って参りました。
中学高校では6月22日(土)、久しぶりの運動会を実施しました。
梅雨のさなかに行なったことをいぶかしく思われるでしょうが、日程の調整がつかず、このようなことになりました。案の定、台風が来るという予報が出たり、前日まで雨模様だったりして、開会が危ぶまれましたが、奇跡的に晴れ、砂を入れたグランドで熱戦が繰り広げられました。
男子が入ったため、リレーその他、競技の迫力は倍増し、応援にも熱が入りました。
名物の仮装競争も復活しササエさんはじめ、傑作がそろいました。先生方も全面的に協力され、仮装したままのパフォーマンで一緒に踊って下さいました。
どの競技、演技でも、一人一人全力で参加していることがひしひしと伝わって来て、見物する側も、退屈する暇は全くありませんでした。
最後、あいさつに立った生徒会長の感動して絶句しながらのスピーチが、運動会の成功を確信させてくれました。
9月6日(金)、7日(土)の梅光祭、22日(日)のオータムフェスティバル(文化部発表会)も、この流れに乗って大いに盛り上がりそうで、今から楽しみです。
昨年(2012年)の梅光祭の様子:
http://www.baiko.ac.jp/highschool/newhp/topnews/2012/120908.htm
ホームページも更新していますので、中高の様子をどうぞご覧下さい。もし、下関にお帰りの折には、是非、学校をお訪ね下さい。心よりお待ちしております。
学院長 中野新治