梅光学院高等学校同窓会
2016年10月26日

戦中戦後の思い出(前編)

s6-20私は昭和六年(一九三一年)九月二十五日に生まれた。満州事変が勃発したのが 一九三一年九月十八日だから、私の生涯は十五年戦争と足並みを揃えて始まったことになる。
もう大東亜戦争=第二次世界大戦を体験した世代が数少なくなっているので、うろ覚えながら私の若かった日々の思い出を記すことにも、一片の意義はあるかもしれない。
私が生まれたのは大里、つまり現在の北九州市だが、その後父の勤務先の都合で下関に引っ越し、初等教育は名池小学校で、中等教育は梅光女学院で受けた。当時、小学校は国民学校と呼ばれ、梅光は女学校だった。女性が入学できる大学はなく、女子教育の最高は専門学校止まりで、もちろん女性に選挙権はなかった。だから、当時の女性たちがどんなに深い挫折感に悩まされていたかは、容易に想像できよう。

 

tokakansei3国民学校時代は、日本が昭和十二年に起こったシナ事変を経て、昭和十六年には大東亜戦争に突入するという大変な時代で、六年間を通して色濃く戦時色に染まっていた。同時に、私にとってはいろんな意味で暗黒時代でもあった。
明るい電灯に照らされ、色とりどりの華やかなネオンに彩どられた美しい夜の街の印象は、ごく幼かった日々の思い出にすぎない。文字を覚えて、沢山の本を読みたくなった時期は、灯火管制の下での暗く、陰気で、不自由な夜が延々と続く、息がつまりそうな日々の連鎖だった。電灯はすべて黒い布で覆うか、傘をかぶせなければならず、真下にほんのりと白い円を描くだけ。それでも、一筋のかすかな光が外に洩れようものなら、たえず見回りを続けている町内会の防空対策委員の厳しい叱責と「非国民」のレッテルを覚悟しなければならない結果となる。

 

imagesuw97afj2和菓子やケーキの類が店頭から姿を消したのは、国民学校一~二年生の頃ではなかったかと思う。砂糖はもちろん統制で手に入りがたく、この頃から食料をはじめほとんどすべてのものが配給制になった。配給制になっていないものはほとんどが、長い行列をして買わねばならなかった。鮭の切り身とか他の食品を売っていると聞くと、すぐ走り出て行列に並んだものだが、それも一~二時間立ちんぼしたあとで、もう品物がなくなりました、と追い返されることはたびたびあった。そういうわけで、街を歩いていて、行列を見ると、売っているものが帯占めのような不用品であろうと、エプロンであろうと、何でも買わなければと、行列に並ぶ癖がついた。学用品もその例に洩れず、勝手には買えなかった。鉛筆を買いたければ、いま使っている鉛筆が五センチ以下の短いもので、もうこれ以上書けないということを先生に認めてもらわねばならず、ノートの場合は最後のページまで書きつぶされていることを先生に証明してもらわなければならなかった。

 

img_2しかし、物資以上に不足していたものは、もちろん食べものだった。お米は厳しく統制され、一日一人二合四勺がやがて二合一勺となり、お粥や雑炊にして食べのべるのが普通だった。闇市場では、高額の金を出せば多少は買えたものの、見つかれば刑務所行き覚悟しなければならない。買い出しに行っても同じこと、家に帰りつくまで警察や軍隊に捕まるのではないかと戦々兢々の有様だった。それも、最初のうちは近くの農家で母の絹の着物などを差し出すとお米が手に入ったが、のちになると、一枚の晴れ着を出しても大根二、三本しか買えなくなった。だから、少しの土地があればみんなが南瓜や胡瓜を植え、実が食べられるときは大変な幸せ、ふだんは葉や茎まで食べた。しかし、どうにも我慢できなかったものに海藻麺がある。これは、戦争の終わり近く食料事情が極端に厳しくなった折に配給されたもので、昆布やワカメではなく、浜辺に打ち上げられた海藻や藻を麺の形に作ったものだ。茶色のズルズル、グミグミしたもので、どんなに工夫しても味がつかず、食べると喉につまって嘔吐したくなる。私はどうしてもこれを食べることができず、母からこれ以上ないほど叱責されたが、海藻麺が食卓にのぼったときは絶食することにした。

 

しかし、食料不足よりつらいことが、いくつかあった。冬、どんなに寒いときでも三枚以上着てはならず、外套などは着ることが許されなかった。つまり、スリップにシャツ一枚、その上にセーラー服一枚で冬を過ごさねばならなかったのだ。靴下一枚の足はいつも凍えており、歯の根はいつもガチガチ鳴っていた。

115それより腹立たしく屈辱的だったのは、寒稽古と称して、時折上半身は裸で、裸足、黒い体操用のブルマーだけのひどい姿で、下関の街を走らされたことだ。寒くて凍えて痛くなった足に、道路の上の砂利や小石が痛く、つらいのと恥ずかしいのとで、文字通り苦行をさせられた感がある。私はどういうわけか晩稲で、六年生になってもペッタンコの胸をしていたので子供に近かったが、同級生や上級生の半数以上はふくらみかけた胸を剥き出しにして衆人環視のなかを走らねばならず、私以上に屈辱感を覚えたにちがいない。

 

それに劣らず、私の初等教育を暗くしていたのは、体罰だった。日本の軍隊がたえざる体罰で成り立っていたためか、それが学園にも持ちこまれ、男性教師のみならず女の先生までが生徒にビンタを食らわせるので、生きた心地はしなかった。もちろん半数近くの先生方は、絶対に体罰は加えなかったように思う。しかし、私たちのクラスではなかったが、ある若くて、いかつい男性教師が竹刀で男子生徒をお仕置きしたとか、柱にくくりつけて殴ったとかいう話を聞くと、背筋が寒くなった。一年から六年までを通じて、一度も体罰を受けなかった生徒は、私を含め一クラスに数人しかいなかったような気がする。

 

p0884また「教練」という授業があって、陸軍の士官が先生になって、薙刀の訓練や、ルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石のポスターにボールを投げつける練習などをさせられた。私はそのポスターの絵を描かされたが、「教練」は大嫌いだった。

だから、勉強は好きで成績はよかったものの、上のような事情で、私は学校に行くのが嫌で嫌で、休みの日が待遠しくてならなかった。しかし、高学年に近くなると、警戒警報と空襲警報の繰り返しが多くなってきた。警戒警報は一連の連続的サイレンだが、空襲警報は断続的に不気味に鳴り響き、いつも恐怖の戦慄を覚えさせたものだ。学校では、警戒警報が鳴ると、授業を止めて、生徒は急いで家に帰り、警報が解除になると、また学校に戻ることになっていた。だから、試験勉強などはしたことがない。元来怠け者で、あまり試験勉強はしないほうだったが、準備不足であっても警戒警報を当てにして心安らかに登校すると、なんとか予想通りになるのだった。

 

後編に続く

 

高02 大社淑子

※写真はインターネットより借用しました

下関今昔物語, 梅光の思い出

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