梅光学院高等学校同窓会
2016年10月27日

戦中戦後の思い出(後編)

前編より続く

 

このような小学校時代を過ごしたので、梅光女学院に入学したときは天にも昇る心地がした。体罰はなく、暖かい服やコートを着ることもできたし、梅光の校舎は山の上にあって、どれも瀟洒で美しく、花の咲き乱れる校庭は、夢のような毎日を予測させてくれたからだ。しかし、楽しいことばかりではなかった。
梅光女学院での一年生の日々は終戦の前の年に当たり、連日、警戒警報と空襲警報が鳴り響いて、まともに授業が受けられる日はしだいに少なくなっていった。関門海峡に機雷を投下するアメリカの艦載機や爆撃機の来襲が度重なってきたからだ。

 

%e6%88%a6%e5%89%8d%e3%81%ae%e4%b8%b8%e5%b1%b1%e6%a0%a1%e8%88%8e3戦前の丸山校舎全景

 

%e6%98%ad%e5%92%8c5%e5%b9%b4%e3%82%b1%e3%83%8d%e3%83%87%e3%82%a3%e3%83%bc%e9%a4%a8ケネディー館

 

%e5%a4%a7%e6%ad%a314%e5%b9%b4%e7%af%89%e8%ac%9b%e5%a0%82講堂

 

hondo-doin14そして、やがて私たちにも学徒動員の命令がくだった。教室は軍服を縫う工場と化し、一年生だったので、私たちは軍服のボタン付けをすることになった。二、三年上の上級生たちは、毎朝セーラー服にモンペ、その上にゲートルを巻いて、前田や長府にあった工場に通って、旋盤工として働いた。

また、軍服縫いをしない日々、私たちは武久の海岸で松脂取りをさせられた。松の木の幹にY字型の傷をつけ、缶詰のカラをくくりつけて、そのなかに松脂がたまるようにするのだ。こうして集めた松脂を精製して飛行機を飛ばすとのことだった。私は連日こういう作業をしながら、こんな松脂で本当にあの大きな飛行機を飛ばすことができるのだろうかと、子供心に疑問を抱いたことを思い出す。

 

しかし、こういう生活を根底から突き崩す日が到来した。一九四五年(昭和二十年)六月二十九日と七月二日の二度にわたる下関大空襲である。最初の空襲の日、私の家は山の高台にあったので、街中が一気に燃え上がるさまが見えた。聞くところによると、最初に石油を撒いてから焼夷弾を落としたとのことで、一瞬にして街中が火の海になった。それは、身震いするほど恐ろしい凄絶な眺めであると同時に、冒涜的なことながらこの上なく美しい景色でもあった。最初の空襲で中心街の大半が焼け、二回目の空襲で残りの大部分が焼けた。二度目のときは私たちの頭上にも焼夷弾が降り注ぎ、私の家も梅光もすべて灰燼に帰した。このとき、私たち一家も家を捨てて山のなかに避難しなければならなくなった。以前からそれぞれの家には防空壕が作られていたが、私たちが庭先に掘られた横穴の防空壕に避難していたら、おそらく蒸し焼きになったことだろう。こうして山のくぼみに身をひそめて夜明けを待ったが、ずっしりと重い爆音を響かせて頭上を飛ぶグラマン爆撃機の恐怖は一生忘れられないかもしれない。

 

chugoku_06_004<入江町、細江町あたり>(撮影者:上垣内 茂夫氏)
手前の道をたどると丸山町、右上方の丘は日和山で、光明寺の屋根が見える。
(総務省ホームページより)

 

chugoku_06_001<(昭和20年)西細江町あたり> (撮影者:上垣内 茂夫氏)
海峡沿いの建物は、右が山陽ホテル、左が下関警察署と旧山陽百貨店。
対岸は門司。(総務省ホームページより)

 

私たちは住む家を失ったので福岡県の田舎にあった祖母の家で二か月を過ごしたが、終戦になって人々が廃墟から立ち上がる情勢になったのに合わせて、焼け残った地域の貸家を探して下関に戻ることになった。梅光の二年生の秋のことだ。梅光も一棟を残して全焼したため、授業は全然行なわれていなかったが、しだいに付近のカトリック教会やメソジスト教会を借りて、少しずつ授業が行なわれるようになった。樽見先生の「生物」や、べらんめえ口調が出てくる村上省三先生の「社会」の授業などを覚えている。

 

%e6%9d%91%e4%b8%8a%e7%9c%81%e4%b8%89村上省三先生

 

だが、その年か翌年あたりから「作業」が始まった。朝、学校に行って礼拝が終わると、すぐ、来る日も来る日も作業が続いた。どちらからどちらへ運んだのか、よく覚えていないが、要するに、丸山町の梅光から大畠の敷地まで、あるいはその逆の行程で、廃材の材木運びをするのである。四~五メートルの柱なら二人で、それ以上に長いものは三人で運び、あるときには釘抜きを使って、廃材に刺さった釘を抜く。とくに難しいのは、三角形をした屋根の合掌作りを運ぶときで、三角形の数ヶ所に生徒が配置され、男性の先生が付き添って注意を与えながら、坂を登ったり下ったりして、大畠まで運んだ。

 

こうした努力のおかげか、やがて大畠の兵舎跡にバラックの校舎ができたが、窓はあってもガラスが入っていない吹きさらしの校舎で、冬はコートを着ていてもまだ寒かった覚えがある。丸山町の梅光の敷地にバラックの校舎ができたのは、女学校の四年生か五年生のときだったような気がする。このときはまだ旧制だったので、五年で卒業してもよく、新しく出来た高等学校の三年度に編入してもよかった。私は進学のほうを選んだ。このときになってようやく、女性も大学に進学することができるようになり、そのためには、高等学校を卒業する必要があったからだ。

 

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高等学校時代            戦後の授業風景(丸山校舎)

 

本格的な授業が受けられるようになったのは、女学校最後の年と高校三年になってからだった。いちばん印象に残っているのは、マッケンジー先生の英語の授業で、語り直しのテキストながら、シェイクスピアの『十二夜』を読んだ。一章ずつテキストを読んで、先生が本文の説明をなさったあと、巻末にあった Question and Answer の練習問題をする だけだが、これが大変おもしろく、私はシェイクスピアの楽しさに目を開かせられた。それで、図書館に通って坪内逍遥訳のシェイクスピア全集を読み通した。

 

%e3%83%9e%e3%83%83%e3%82%b1%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%83%bcマッケンジー先生

 

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ジョーンズ先生とマッケンジー先生             着物姿のジョーンズ先生

 

広津信二郎先生の「国語」の授業も興味深く、「ロダンの遺言」の授業のさまは今でもときどき思い出す。日高先生の「数学」も楽しく、三角や微分積分の問題を解きながら、本当に知識を学んでいるという気がしたものだ。しかし、後で伺ったところによると、戦前は女性に微分積分は要らないということで、戦後初めて女子高校のカリキュラムにも微分積分が取り入れられたということだった。

 

baiko1952-1広津信二郎先生

 

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1947年~48年(昭和22年~23年)当時の丸山校舎の風景

 

語りたいことはまだまだ沢山あるが、私の梅光時代は戦争の思い出と切り離して考えることはできない。つらく苦しいことも多かったが、楽しく、胸の踊るようなこともあった。そして、私の人格形成には梅光の力が大きく作用したと言えるかもしれない。戦中戦後の苦しい時代は長く、敗戦の思いはつらかったが、戦争が終わって幸いだったことは山ほどある。女性も大学で学ぶことが許され、参政権も与えられた。テレビという便利なものが出てきたのは、私が二十代に入ってからだ。航空機の発達で世界の距離が縮まり、コンピューターなどが世界を制御する時代が来ようとは、あの頃夢にも思わなかった。時は移り、環境は変わる。しかし、人の心は変わるのか、変わらないのか、それをしきりに考えるこの頃である。

高02 大社淑子

※「参考写真」はインターネット検索により借用しました。

 

 


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大社淑子氏プロフィール

日本の英文学者、早稲田大学名誉教授。

1931年福岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程中退。早大法学部教授を経て、2002年定年後名誉教授に就任。

英文学を専攻し、現代の英国女性作家を研究、翻訳。特に米国黒人女性作家のトニ・モリスンの翻訳で知られるが、アイヴィ・コンプトン=バーネットの研究書も出している。

 

 

下関今昔物語, 梅光の思い出

2016年10月26日

戦中戦後の思い出(前編)

s6-20私は昭和六年(一九三一年)九月二十五日に生まれた。満州事変が勃発したのが 一九三一年九月十八日だから、私の生涯は十五年戦争と足並みを揃えて始まったことになる。
もう大東亜戦争=第二次世界大戦を体験した世代が数少なくなっているので、うろ覚えながら私の若かった日々の思い出を記すことにも、一片の意義はあるかもしれない。
私が生まれたのは大里、つまり現在の北九州市だが、その後父の勤務先の都合で下関に引っ越し、初等教育は名池小学校で、中等教育は梅光女学院で受けた。当時、小学校は国民学校と呼ばれ、梅光は女学校だった。女性が入学できる大学はなく、女子教育の最高は専門学校止まりで、もちろん女性に選挙権はなかった。だから、当時の女性たちがどんなに深い挫折感に悩まされていたかは、容易に想像できよう。

 

tokakansei3国民学校時代は、日本が昭和十二年に起こったシナ事変を経て、昭和十六年には大東亜戦争に突入するという大変な時代で、六年間を通して色濃く戦時色に染まっていた。同時に、私にとってはいろんな意味で暗黒時代でもあった。
明るい電灯に照らされ、色とりどりの華やかなネオンに彩どられた美しい夜の街の印象は、ごく幼かった日々の思い出にすぎない。文字を覚えて、沢山の本を読みたくなった時期は、灯火管制の下での暗く、陰気で、不自由な夜が延々と続く、息がつまりそうな日々の連鎖だった。電灯はすべて黒い布で覆うか、傘をかぶせなければならず、真下にほんのりと白い円を描くだけ。それでも、一筋のかすかな光が外に洩れようものなら、たえず見回りを続けている町内会の防空対策委員の厳しい叱責と「非国民」のレッテルを覚悟しなければならない結果となる。

 

imagesuw97afj2和菓子やケーキの類が店頭から姿を消したのは、国民学校一~二年生の頃ではなかったかと思う。砂糖はもちろん統制で手に入りがたく、この頃から食料をはじめほとんどすべてのものが配給制になった。配給制になっていないものはほとんどが、長い行列をして買わねばならなかった。鮭の切り身とか他の食品を売っていると聞くと、すぐ走り出て行列に並んだものだが、それも一~二時間立ちんぼしたあとで、もう品物がなくなりました、と追い返されることはたびたびあった。そういうわけで、街を歩いていて、行列を見ると、売っているものが帯占めのような不用品であろうと、エプロンであろうと、何でも買わなければと、行列に並ぶ癖がついた。学用品もその例に洩れず、勝手には買えなかった。鉛筆を買いたければ、いま使っている鉛筆が五センチ以下の短いもので、もうこれ以上書けないということを先生に認めてもらわねばならず、ノートの場合は最後のページまで書きつぶされていることを先生に証明してもらわなければならなかった。

 

img_2しかし、物資以上に不足していたものは、もちろん食べものだった。お米は厳しく統制され、一日一人二合四勺がやがて二合一勺となり、お粥や雑炊にして食べのべるのが普通だった。闇市場では、高額の金を出せば多少は買えたものの、見つかれば刑務所行き覚悟しなければならない。買い出しに行っても同じこと、家に帰りつくまで警察や軍隊に捕まるのではないかと戦々兢々の有様だった。それも、最初のうちは近くの農家で母の絹の着物などを差し出すとお米が手に入ったが、のちになると、一枚の晴れ着を出しても大根二、三本しか買えなくなった。だから、少しの土地があればみんなが南瓜や胡瓜を植え、実が食べられるときは大変な幸せ、ふだんは葉や茎まで食べた。しかし、どうにも我慢できなかったものに海藻麺がある。これは、戦争の終わり近く食料事情が極端に厳しくなった折に配給されたもので、昆布やワカメではなく、浜辺に打ち上げられた海藻や藻を麺の形に作ったものだ。茶色のズルズル、グミグミしたもので、どんなに工夫しても味がつかず、食べると喉につまって嘔吐したくなる。私はどうしてもこれを食べることができず、母からこれ以上ないほど叱責されたが、海藻麺が食卓にのぼったときは絶食することにした。

 

しかし、食料不足よりつらいことが、いくつかあった。冬、どんなに寒いときでも三枚以上着てはならず、外套などは着ることが許されなかった。つまり、スリップにシャツ一枚、その上にセーラー服一枚で冬を過ごさねばならなかったのだ。靴下一枚の足はいつも凍えており、歯の根はいつもガチガチ鳴っていた。

115それより腹立たしく屈辱的だったのは、寒稽古と称して、時折上半身は裸で、裸足、黒い体操用のブルマーだけのひどい姿で、下関の街を走らされたことだ。寒くて凍えて痛くなった足に、道路の上の砂利や小石が痛く、つらいのと恥ずかしいのとで、文字通り苦行をさせられた感がある。私はどういうわけか晩稲で、六年生になってもペッタンコの胸をしていたので子供に近かったが、同級生や上級生の半数以上はふくらみかけた胸を剥き出しにして衆人環視のなかを走らねばならず、私以上に屈辱感を覚えたにちがいない。

 

それに劣らず、私の初等教育を暗くしていたのは、体罰だった。日本の軍隊がたえざる体罰で成り立っていたためか、それが学園にも持ちこまれ、男性教師のみならず女の先生までが生徒にビンタを食らわせるので、生きた心地はしなかった。もちろん半数近くの先生方は、絶対に体罰は加えなかったように思う。しかし、私たちのクラスではなかったが、ある若くて、いかつい男性教師が竹刀で男子生徒をお仕置きしたとか、柱にくくりつけて殴ったとかいう話を聞くと、背筋が寒くなった。一年から六年までを通じて、一度も体罰を受けなかった生徒は、私を含め一クラスに数人しかいなかったような気がする。

 

p0884また「教練」という授業があって、陸軍の士官が先生になって、薙刀の訓練や、ルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石のポスターにボールを投げつける練習などをさせられた。私はそのポスターの絵を描かされたが、「教練」は大嫌いだった。

だから、勉強は好きで成績はよかったものの、上のような事情で、私は学校に行くのが嫌で嫌で、休みの日が待遠しくてならなかった。しかし、高学年に近くなると、警戒警報と空襲警報の繰り返しが多くなってきた。警戒警報は一連の連続的サイレンだが、空襲警報は断続的に不気味に鳴り響き、いつも恐怖の戦慄を覚えさせたものだ。学校では、警戒警報が鳴ると、授業を止めて、生徒は急いで家に帰り、警報が解除になると、また学校に戻ることになっていた。だから、試験勉強などはしたことがない。元来怠け者で、あまり試験勉強はしないほうだったが、準備不足であっても警戒警報を当てにして心安らかに登校すると、なんとか予想通りになるのだった。

 

後編に続く

 

高02 大社淑子

※写真はインターネットより借用しました

下関今昔物語, 梅光の思い出

2015年09月30日

「あさが(梅光にも)来た」って、ご存知でしたか?

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皆様、こんにちは。
ご無沙汰しております。10月に入ろうかというのに、下関はまだ暑い日が続いています。

 

さて、今週から始まったNHKの朝ドラ「あさが来た」の主人公廣岡淺子が、梅光に来ていたってご存じでしょうか?

 

広岡浅子1914年(大正3年)6月5日の開院式典の来賓の中に、廣岡淺子の名前があります。県知事代理、市長代理といったお決まりの来賓の他に、当日の祝辞を述べた来賓の一人が廣岡淺子です。どんなお話をしたのか、名前は残っていても、話の内容は残っていないので、残念ですが分かりません。激動の明治を女性実業家として生き抜いた人の言葉は、きっと、生まれたばかりの梅光の若い女学生たちに、強い印象を残したでしょう。

 

廣岡淺子は、日本女子大学設立の協力者でした。その日本女子大を作ったのは、山口県吉敷出身の成瀬仁蔵です。成瀬は、梅光の前身光城女学院の創立者、吉敷出身の服部章蔵の後輩にあたります。淺子は宮川経輝から洗礼を受けてクリスチャンになりました。

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建築家ヴォーリスの後援者でもあり(大学のスタージェスホールはヴォーリス設計事務所の作品です)、晩年には市川房江や村岡花子とも交流があった女性です。

 

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さらに、この開院式典には、現在も記憶される人たちが来賓として名を連ねています。

 

長尾半平(鉄道院管理局長)
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この人は、門司港にあった九州鉄道院の管理局長、出来たばかりの門司港駅の隣に管理局の建物がありました(現存しています)。大儀見元一郎から洗礼を受けたクリスチャンです。イギリスに港湾研究のために留学していますが、その下宿先で一緒だったのが夏目漱石。漱石の随筆『過去の匂い』に長尾が「K君」として出てきます。

 

森村市左衛門(ノリタケ、TOTO創業者)
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現在横浜にある森村学園を創設した森村市佐衛門です。小倉に日本陶器小倉工場(後のTOTO)が出来るのは1916年ですが、その前に、創業者森村は梅光にやってきています。彼は日本女子大学や慶應義塾に多額の寄付をするなど、日本の教育に貢献しました。晩年にはクリスチャンになっています。

 

 

宮川経輝(大阪基督教会牧師)
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熊本バンドのメンバーで、同志社大学の一期生。宮川も服部章蔵と間接的に関係があります。彼に牧師資格を授けたのは(按手礼と言います)、服部章蔵、成瀬仁蔵と同じく、吉敷出身の澤山保羅という人物。澤山は服部と共に幕末の山口県内で幕府軍と戦った人でしたが、アメリカ留学を経てクリスチャンになり、大阪に梅花女学院を創設しています。

 

 

富海松兵衛(下関教会長老)
唐戸にあった富海商会、錦波楼の主人、服部章蔵が建てた下関教会の最初の教会員の一人です。

 

こうしてみると、日本女子大学の関係者、また、服部章蔵と縁のある人たちがたくさん、下関梅光女学院の誕生を祝ってくれたことが分かります。服部章蔵は1848年生、廣岡淺子は1849年生、同時代人です。服部は大河ドラマ「花燃ゆ」の久坂玄瑞たちと共に禁門の変(蛤御門の変)に長州軍の一人として参加するのですが、幸いに生き延びて吉敷に戻ってきました。もし、あの時、久坂と共に戦死していたら、梅光は生まれていなかったかもしれません。

 

100年の歴史の中には、まだまだ面白いお話がありそうです。見つけたら、またお知らせしましょうね。

 

9月29日

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

下関今昔物語, 梅光の思い出

2013年03月31日

梅光に行きました

3月26日、飯沼支部長と共に、今年度総会・懇親会で講演をお願いしている片山(清川)先生のところにご挨拶に伺いました。力丸先生もご同席くださり、ひとしきり思い出話に花が咲きました。お二人ともお元気です!

 

片山先生の同期生の皆様、教え子の皆様、総会・懇親会の際にはぜひ懐かしい先生に会いにいらしてください。

 

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関門海峡の向こうに力丸先生のご自宅が見えます・・・

 

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下関駅は現在改装工事中です。

 

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工事現場に貼られていたイメージ図。駅ビルが出来るみたいだけど、やはり三角屋根は下関駅の象徴なのですね。

下関駅

 

東京支部事務局 高27 時山響子(旧姓 原田)

 

下関今昔物語, 母校・先生方は今・・・, 近況報告

2012年12月31日

海峡ゆめタワーから見た母校

11月に下関に帰った時に海峡ゆめタワーに上りました。夕方暗くなるまで登っていて、ライトアップされているところも見られました。

 

 

 

海峡ゆめタワー (153m)
〒750-0018 山口県下関市豊前田町3丁目3-1

平成8年7月にオープンした関門海峡のランドマークタワーです。地上143mの
展望室からは、瀬戸内海から関門海峡、巌流島、九州の連山、響灘(日本海)
が見渡せる360度の雄大なパノラマが一望できます。夜は、季節、曜日によって
異なるライトアップが施され、海峡にきらめくイルミネーションがロマンチック
です。平成18年10月、山口県初の「恋人の聖地」に認定されました。

 

高29 / 短英14 三宅良子(旧姓:島谷)

 

下関今昔物語

2012年01月22日

下関のお正月

初日の出も見ることなく、寒い寒い元旦となりました。海を臨める下関らしい風の中、昨年よりは今年と願って神社にもうでる方たちが、晴れ着というよりは防寒をしてお出かけでした。

 

広い広い関東平野の片隅に住んでいても、ビル群と今一つくすんでいる外気の中で、視界が狭められている日常が、時々下関の海峡のある風景を懐かしく思い出させ、正月の帰省の時はその風景にホッとなごんでいます。

 

教会の元旦礼拝を済ませ、亀山八幡宮と赤間神宮を観察してきました。日ごろは参拝客もまばらなここも、正月ばかりは下関なりの人出がありました。でも、なぜか「亀山さん」の方が参拝される方の列が国道まであふれていました。本殿の前庭が狭いからかしら?

 

門司港との渡船のある唐戸には『カモンワーフ』という商業施設もあり、海側にはウッドデッキの遊歩道があり、お天気が良ければ、絶好のお正月のぶらり歩きだったのでしょうけれど。

 

在校中と変わらない海峡の景色と変わっていく町並み、人の流れ。帰省の度に感慨に浸るものがありますが、「下関」が元気でいてくれますようにと願うお正月でした。

 

高27 島村善子(旧姓 中西)

下関今昔物語

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