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皆様、こんにちは。
ご無沙汰しております。10月に入ろうかというのに、下関はまだ暑い日が続いています。
さて、今週から始まったNHKの朝ドラ「あさが来た」の主人公廣岡淺子が、梅光に来ていたってご存じでしょうか?
1914年(大正3年)6月5日の開院式典の来賓の中に、廣岡淺子の名前があります。県知事代理、市長代理といったお決まりの来賓の他に、当日の祝辞を述べた来賓の一人が廣岡淺子です。どんなお話をしたのか、名前は残っていても、話の内容は残っていないので、残念ですが分かりません。激動の明治を女性実業家として生き抜いた人の言葉は、きっと、生まれたばかりの梅光の若い女学生たちに、強い印象を残したでしょう。
廣岡淺子は、日本女子大学設立の協力者でした。その日本女子大を作ったのは、山口県吉敷出身の成瀬仁蔵です。成瀬は、梅光の前身光城女学院の創立者、吉敷出身の服部章蔵の後輩にあたります。淺子は宮川経輝から洗礼を受けてクリスチャンになりました。
建築家ヴォーリスの後援者でもあり(大学のスタージェスホールはヴォーリス設計事務所の作品です)、晩年には市川房江や村岡花子とも交流があった女性です。
さらに、この開院式典には、現在も記憶される人たちが来賓として名を連ねています。
この人は、門司港にあった九州鉄道院の管理局長、出来たばかりの門司港駅の隣に管理局の建物がありました(現存しています)。大儀見元一郎から洗礼を受けたクリスチャンです。イギリスに港湾研究のために留学していますが、その下宿先で一緒だったのが夏目漱石。漱石の随筆『過去の匂い』に長尾が「K君」として出てきます。
現在横浜にある森村学園を創設した森村市佐衛門です。小倉に日本陶器小倉工場(後のTOTO)が出来るのは1916年ですが、その前に、創業者森村は梅光にやってきています。彼は日本女子大学や慶應義塾に多額の寄付をするなど、日本の教育に貢献しました。晩年にはクリスチャンになっています。
熊本バンドのメンバーで、同志社大学の一期生。宮川も服部章蔵と間接的に関係があります。彼に牧師資格を授けたのは(按手礼と言います)、服部章蔵、成瀬仁蔵と同じく、吉敷出身の澤山保羅という人物。澤山は服部と共に幕末の山口県内で幕府軍と戦った人でしたが、アメリカ留学を経てクリスチャンになり、大阪に梅花女学院を創設しています。
富海松兵衛(下関教会長老)
唐戸にあった富海商会、錦波楼の主人、服部章蔵が建てた下関教会の最初の教会員の一人です。
こうしてみると、日本女子大学の関係者、また、服部章蔵と縁のある人たちがたくさん、下関梅光女学院の誕生を祝ってくれたことが分かります。服部章蔵は1848年生、廣岡淺子は1849年生、同時代人です。服部は大河ドラマ「花燃ゆ」の久坂玄瑞たちと共に禁門の変(蛤御門の変)に長州軍の一人として参加するのですが、幸いに生き延びて吉敷に戻ってきました。もし、あの時、久坂と共に戦死していたら、梅光は生まれていなかったかもしれません。
100年の歴史の中には、まだまだ面白いお話がありそうです。見つけたら、またお知らせしましょうね。
9月29日
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美