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梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
卒業生の記憶にある「梅光の母」は誰でしょう。
今回から、それぞれに母と慕われた、女性の先生方をご紹介します。
写真1. 講堂
初代の講堂は1925年(大正14年)に建設されました。建設に当たっては、米国北長老派教会の慈善家として知られたマーガレット・オリヴィア・セージ(1828-1918)からの5万円が使われました。セージ夫人が1907年に創設したラッセル・セージ財団は、ロックフェラー財団やカーネギー財団と並ぶ財団として、アメリカの社会政策研究活動を今も展開しています。
この資金を得る時には、ビゲローの活躍がありました。
写真2. ビゲロー
ガートルード・サラ・ビゲローは、1860年(万延1年)5月17日、米国ニューヨーク州バタヴィア生まれ。ハミルトン・レディス・セミナリーを卒業後、教職に就いていましたが、日本伝道の宣教師に呼び掛けられて、来日を決意します。1887年(明治20年)東京の新栄女学校(後の女子学院)に長老派の教育宣教師として着任。北陸女学校を経て、1892年(明治25年)、光城女学院に着任。服部章蔵とジェームス・B・エーレスを補佐して英語、倫理、唱歌、体操を教え、1899年(明治32年)光城の第2代院長になります。
黒木五郎の『梅光女学院史』には、「多年学院の理事者として其の維持団体たる伝道局と学院との意思の疎通を計りしのみでなく在任中四回帰国の際は、各地に遊説し、日米親善の気風喚起に貢献せられた。/梅光建設費の内ジョンスチウアト、ケネデー氏の寄附金三萬五千弗/梅光講堂の建設費マアガレット、オリヴァセエジ夫人の寄附金約五萬円/などの贈らるゝに至ったのは、先生の此の方面の貢献が認められたのが主な原因であった。」とあり、その熱心な教育者ぶりが想像できます。
梅香崎と合同するとき、ビゲローは光城の院長から一介の教師として梅光に来る決断をします。設置認可を得るにあたって、外国人女性が梅光の院長になることは難しかったのです。
1927年(昭和2年)日米友好の「青い目の人形」の山口県贈呈式はビゲローによって行われました。1930年(昭和5年)丸山敷地内に「祈りの家」を寄贈して帰米します。1941年(昭和16年)11月1日、カリフォルニア州ロサンゼルスで没。享年81でした。
ビゲローは厳格な人でしたが、彼女の薫陶によって清廉な光城生・梅光生が育ったとも言えます。経済的困難の生徒や地域の罹災者へ、私財を惜しまず支援する人でもありました。
光城時代の教え子に、後に女子学院の院長となる弘中つち(山本つち)がいます。ビゲローの支援によってアメリカ留学したつちは『少女パレアナ』の翻訳家として有名です。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)