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梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
連載の最後に、皆様が在学中に必ずご存じの先生方をご紹介しましょう。
写真1. 広津信二郎
広津信二郎は、1906年(明治39年)11月3日、和歌山市生れ。父は前田直楠、母よしえ。
母方の叔父に、後に梅光女学院の第2代院長となる福田八十楠がいます。父直楠の早世により、一家は北海道に移住し、そこで叔父八十楠の薫陶を受けました。
1919年(大正8年)札幌市立北九条小学校卒業後、1920年(大正9年)関東学院中学に編入します。この時期に受洗した後、1929年(昭和4年)早稲田大学文学部卒、関東学院中学校教諭になります。
1940年(昭和15年)明治学院中学教諭時代に廣津藤吉の四女慰子と結婚し、広津姓を名乗ります。叔父と甥が奥さんを通じて兄弟になったのです。
梅光女学院との関わりは1948年(昭和23年)に始まります。梅光女学院総主事と高等学校長を兼任し、1950年(昭和25年)第5代院長になります。1951年(昭和26年)には米国長老派教会伝道局の招きで、半年間の視察旅行に出かけました。
帰国後、信二郎の手で育てられた梅光は大きく発展します。
1953年(昭和28年)梅光女学院付属幼稚園を開園。
1964年(昭和39年)梅光女学院短期大学を開学。
1967年(昭和42年)梅光女学院大学を開学。
1976年(昭和51年)梅光女学院大学大学院を開学。
梅光の先頭に立ち続け、学院の発展に尽くした人生を送られました。1983年(昭和58年)勲三等瑞宝章叙勲。ご本人は、作るばかりの人間と思われることを嫌がっていらしたようですが、学内だけでなく、地域の人々の協力体制を立ち上げての一大事業を成功させた力量には感服するばかりです。
梅光女学院設立資金募集委員会「短期大学設立趣意書」に顧問として名前が挙がっているのは、山口銀行頭取布浦眞作、日東漁業社長七田末吉、大洋漁業副社長中部利三郎、日魯漁業専務取締役江口次作、林兼造船社長中部文次郎といった錚々たるメンバーです。
1999年(平成11年)12月31日、学院長を辞任し、名誉院長の称号が贈られます。
2000年(平成12年)7月4日、大阪にて没、享年93でした。8月9日、短大スタージェスホール(現・大学)で学院葬が営まれ、以後、学院はこの日をメモリアルデーとして、卒業生や旧教職員の逝去者を偲ぶ日にしています。
写真2. 佐藤泰正
佐藤泰正は、1917年(大正6年)11月26日、山口県厚狭町に生まれます。早稲田大学文学部卒。文学博士。
1940年(昭和15年)山梨英和女学校教諭に就任の後、大阪市立高等女学校を経て、1945年(昭和20年)11月、梅光女学院教諭に着任します。赤毛のアン(村岡花子)の学校から少女パレアナ(山本つち)の学校への異動ですね。広津信二郎よりも先に梅光に来られています。
1949年(昭和24年)、急逝した水津米(1889-1949)の後をうけて梅光女学院中学教務主任と中学部長(中学校長)を兼務し、翌年から中学部長となります。1956年(昭和31年)教職員内地留学制度第1期生として早稲田大学に1年間の依託生として送り出されます。この制度は以後長く続いて、教職員の資質向上に大きく貢献しました。
1964年(昭和39年)下関開学50年を記念して創設された梅光女学院短期大学の開学に際して副学長となり、1971年(昭和46年)には広津信二郎の後を継いで梅光女学院大学学長に就任、翌年から短期大学の学長も兼任します。以後、1999年(平成11年)までの長きにわたって大学学長職を全うし、多くの卒業生に強い影響を与えました。
今もその研究と教育への情熱は衰えることがありません。大学院の講義の為に東駅キャンパスに足を運ばれる、その足取りこそ弱られましたが、若い人に文学を力強く語る言葉も声も張りを失っていません。
近代文学の研究者として全国的に知られ、大学公開講座の開設、各種講演等の業績により「文学の梅光」の名を地域に広め高めた功績は、誰からも認められるところです。
写真3. 平石長義
平石長義は、1918年(大正7年)11月21日、豊浦郡角島に生まれます。
1938年(昭和13年)広島高等工業機械科卒、1942年(昭和17年)九州帝国大学工学部卒冶金科卒。海軍に入隊し、終戦時海軍技術大尉でした。
東京急行電鉄を経て、昭和24年頃、梅光女学院に着任し、理科教諭として授業を受け持つほか、事務局長として、学校法人の設立、幼稚園開園、短期大学開校、大学開校などの事務手続きに携わり、広津院長を支えて活躍しました。事務の先生として覚えている卒業生が多いと思います。
1953年(昭和28年)梅光幼稚園開設の一期生に、長男平石純一氏の名があります。開園に際して、純一氏の入園に間に合うように急いだという逸話も残っています。
2011年(平成23年)11月21日、福岡で没。享年93でした。
写真4. 河田哲
河田哲は、1925年(大正15年)9月6日、下関に生まれます。両親ともに熊本出身で父は鉄道省に勤務していた功。母マツは熱心なキリスト者で、哲と弟は幼児洗礼を受けたそうです。弟稔氏は後に日本福音ルーテル教会の牧師になりました。
1943年(昭和18年)下関中学校卒、1946年(昭和21年)3月、大連の南満州工業専門学校(旅順工科大学)卒。この間、勤労学徒動員で遼陽の陸軍三八三部隊の火薬工場に徴用され、終戦後は中華民国第九兵工省に現地留用されています。同年11月9日に帰国。
1947年(昭和22年)大洋漁業に入社、油脂工場研究室に所属し、下関ルーテル教会で日曜学校の教師を務めています。
1951年(昭和26年)1月8日、広津信二郎に誘われて理科教諭として梅光女学院に着任します。この年3月、学院は学校法人梅光女学院を設立、丸山町に本館、講堂、東館が落成し、戦後の復興を遂げて新しい教育へのスタートを切った時期でした。ソフトボール部の顧問として、四校試合に活躍された事は多くの卒業生の知るところです。
1968年(昭和43年)梅光女学院中学校校長、1971年(昭和46年)梅光女学院高等学校校長。20年以上にわたって、中・高の校長職を務め、昭和の後半から平成にかけて、生徒たちの精神的支柱として敬愛されます。日々の礼拝の中での生徒たちへの訓話は、平明で分かりやすく、若い人たちの心に届くものでした。
1992年(平成4年)9月29日、下関で没。享年67でした。10月18日、丸山講堂で学院葬が営まれました。従五位勲四等旭日小綬賞。
梅光100年の歩み、機会がありましたらまた別の写真とお話を、と思っております。
皆様ありがとうございました。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
戦前、梅光の講堂は下関市内でも立派な建物の一つだったようです。本格的なグランドピアノがありましたから、海峡を行き来する音楽家たちが立ち寄って、練習場所にしたり、コンサート会場にしたり。
このピアノを使って学び、ピータースから教えを受けて、音楽家になった卒業生も多かったようです。
世界的な有名人もやってきました。
写真1. ヘレン・ケラー
1937年(昭和12年)5月25日、初めて来日したヘレン・ケラー(1880-1968)が日本全国を講演して下関に来た時の写真です。下関市主催の講演会の会場が、梅光の講堂でした。昼夜2回の講演があったそうです。トムソン嬢と日本人通訳の2段階を経ての講演でした。
ケラーの宿泊先は、地元の実業家河村幸次郎(1901-1994)宅でした。下関市立美術館は彼の個人蒐集を基にして設立されたもので、開館時に河村氏は名誉館長の称号を贈られています。
ヘレン・ケラーと言えば、塙保己一(1746-1821)との関係も有名ですね。『群書類従』を編纂した塙保己一のことを、アメリカ留学に行った日本人から聞いていたヘレンが、来日して最初に訪れたのは温故学会だったそうです。学生時代『群書類従』のお世話になった、大学日本文学科(国文科)の卒業生も多かったのではないでしょうか。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
写真1. 大畠校舎、記念館
1945年(昭和20年)7月2日早朝、梅光女学院は空襲によって校舎のほとんどを焼失しました。
この写真は焼け残った校門と、廣津記念館(1941・昭和16年竣工)です。他に残ったのは廣津藤吉邸(2000年9月29日解体)とビゲローが残した祈りの家(移築して現存)だけでした。
授業をするために、近くの丸山教会とカトリック教会を貸してもらい、さらに日和山公園に建っていたバラックを借りました。現在、大学が建っている大畠校地(現・東駅キャンパス)もその時に使わせてもらうことになった土地です。
写真中央にあるのは大畠校地にあった旧下関重砲連隊の倉庫です。
写真2. 大畠校舎 礼拝風景
大畠の校舎には電燈もなく、窓ガラスも盗まれてしまっていました。この写真はそのような不自由な中でも行われていた礼拝。生徒たちはおそらく床に直接座っています。画面奥のオルガンの後ろに整然と並ぶ四角い枠が見えますが、これはガラスがなくなってしまった窓です。そこに木の板をはめ、中央を十字に切って明り採りにしていたことが分かります。
1946年(昭和21年)、仮校舎を建てるため、この建物と日和山の建物を解体し、使える木材を教員と生徒たちとが協力して丸山町に運びました。このことを覚えておられる卒業生がまだいらっしゃいます。その方たちのご苦労が、今の梅光の礎となったことに感謝したいと思います。
敷地内には、高射砲を備え付けるための大きな穴も残っていました。生徒たちはそこに出入りして遊んだそうです。
写真3. 福田八十楠
戦後の復興を最初に担ったのは、第2代院長福田八十楠です。
福田八十楠は1895年(明治28年)4月8日、和歌山市に生まれます。広津信二郎は八十楠の甥にあたります。
八十楠は2人の兄がキリスト者であったため、影響を受けて受洗。1916年(大正5年)東北帝国大学予科を卒業し北海道帝国大学農学部に進み、1919年(大正8年)に卒業します。北海道時代は札幌バンドとの交流もあり、甥信二郎は小学校の時に八十楠の指導を受けています。さらに1922年(大正11年)東京帝国大学理学部を卒業し、この年11月、満州医科大学予科教授となります。満州時代に、廣津藤吉の長女君と結婚して、廣津家との交流が始まります。
1933年(昭和8年)から2年間、ドイツのミュンスター大学に留学し「植物水度論」をグスタフ・フィッシャー書店から出版するなど、科学者としての道を進みました。1940年(昭和15年)北京大学理学院生物学科系主任教授になります。
1945年(昭和20年)3月、岳父廣津藤吉の依頼を受けて院長職を受ける決意をし、北京大学を辞任します。6月30日、梅光女学院着任。そして7月2日の下関空襲で梅光は罹災したのです。
院長着任後3日目に受けた学院存亡の危機に、ひるむことなく対策の手を打ち続けた福田は、戦後の梅光を立ち直らせた第一人者と言えるでしょう。
大畠の旧重砲連隊の土地を借りる手立てをつけたのも福田でした。後にこの土地を買い受けて幼稚園、中学校校舎、中学校校長宅(佐藤泰正住居)、中学校教頭宅(村上省三住居)が建ち、さらに短期大学が建ち、現在は大学があります。
東駅キャンパスは、福田によって道を開かれた場所なのです。
1946年(昭和21年)復興の道筋を整備した福田は辞任し、再び廣津藤吉が院長になります。以後、福田は広島文理大学(現・広島大学)の教授になり、梅光女学院短期大学の開校のときには教授の一人に名を連ねました。梅光女学院大学教授も歴任します。
1970年(昭和45年)11月4日、東京で没。享年75でした。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
先生方のお話が続いたので、今回は制服のお話を致しましょう。
写真1. 昭和6年教室風景
写真2. 昭和10年入学記念
梅光のセーラー服が制定されたのは1924年(大正13年)です。
梅12回生、百元知恵が、「梅光」誌19号(1987年/昭和62年6月10日)で「私共の四年生の時に制服が制定されました」と述べています。この人が4年に進級するのは1924年(大正13年)4月、その年の制定だと判断できます。
最初のセーラー服は、白の2本線に黒リボンです。
この取り合わせの意味はなんでしょう。まず、白の2本線は、1919年(大正8年)第一回の梅光卒業生が学校に寄贈した校旗の2本線から取られたと思われます。その線の意味は、次のように述べられています。
「白色の斜線は月光に照らされたる梅の若芽で、梅光の内的精神を象徴」(梅光女学院史 / 黒木五郎著.1972縮刷版 p.415)
その梅光の内的精神とはなにか、セーラー服制定の前年、1923年(大正12年)3月に初めて作成された卒業アルバムから、さらに読み取ってみましょう。100年記念絵葉書のケースのデザインを思い出して下さい。
アルバムの制作に当たったのは藤山一雄(1889-1975)です。藤山は、表紙を黒とオリーブの2色にして、「オリーブは青春、黒は清教徒気分」と色の意味を述べ、2色の交わるところに、金の十字架にからまる2本の白線をデザインし、それを「信望愛」と呼びました。
黒のリボンは「清教徒気分」、つまり、ミッションスクールの象徴で、十字架が「信」ならば2本の白線は「望」と「愛」になります。
つまり、白2本線に黒のリボンの梅光のセーラー服は、ミッションスクールらしく清廉、質素、実直を尊び、華美、奢侈、我儘を嫌い、愛と希望をあらわしたものなのです。
この白線と黒リボンの制服は1958年(昭和33年)卒の梅光女学院生まで続き、その年の4月入学生から変更されました。金2本線に梅光カラーと呼びならわすえんじ色のリボンは、似たようなセーラー服を採用した他校と区別するためだったそうです。
写真3. 校内点描
伝統の制服を着ることには、それを制定した先人の心を受け継ぐという意味もあるのではないでしょうか。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
マッケンジーと同じ時期に梅光にいて、隣り合った家に住んでおられたのが今回の「梅光の母」です。
長崎にあった梅香崎の兄弟校東山学院の第7代院長アンソニー・ワルボード(1878-1919)は、両親がオランダからアメリカに渡った移民です。ホープ大学出身の彼は、東山学院においてもっとも生徒たちから愛され慕われた院長でした。
その姪にあたるのが、梅光のワルボード、フローレンスです。
写真1. ワルボード
フローレンス・シンシア・ワルボードは、1895年(明治28年)1月28日、米国ウィスコンシン州シーダーグローブに生まれました。1914年(大正3年)ホープ大学に入学し、1918年(大正7年)に卒業します。
翌1919年(大正8年)、大学の先輩でもある叔父アンソニーが長崎で没しています。フローレンスは日本に来る前から、梅光にご縁のあった先生だと言っていいでしょう。
1922年(大正11年)改革派の宣教師として来日し、1925年(大正14年)下関梅光女学院に着任。優れた英語教育者として評価が高く、卒業生の記憶にも残ります。1939年(昭和14年)、梅光を辞して横浜のフェリス女学院に移り、一旦帰米。
1947年(昭和22年)再来日し、翌48年(23年)梅光に帰任し、梅光の復興資金の調達に奔走するとともに、戦災を受けた生活困窮者への援助も熱心に行いました。アメリカから古着や食料品を支援物資として取り寄せ、生徒や地域の人たちに配ったことを覚えている人は多いでしょう。
1951年(昭和26年)丸山の講堂の再建の時も、ワルボードは資金集めに奔走しました。マッケンジー帰米後も教鞭をとり続け、幼稚園児の英語教育にも携わっています。
1960年(昭和35年)定年により梅光を退職し帰米。長年の功績に勲5等が授与されています。
1968年(昭和53年)10月1日、テキサス州のサンガ―マナー(老人介護施設)で没、享年73でした。
それぞれ永く記憶に残しておきたい「梅光の母たち」をご紹介しました。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
多くの方が特に記憶に留めて居られるのはマッケンジー先生でしょうか。戦後の卒業生たちが第一に名前を挙げますね。
写真1. マッケンジー
ヴァージニア・M・マッケンジーは1894年(明治27年)5月18日、スコットランドのルイス島に生まれます。1908年(明治41年)米国オレゴン州に移住。1916年(大正5年)リード大学卒。ラテン語、ギリシャ語に秀でた人でした。
1919年(大正8年)長老派宣教師として来日、下関梅光女学院に着任し、さらに大阪のウィルミナ、北海道の北星と転任して、1930年(昭和5年)から再び梅光に来ます。戦前の国際事情により、英国籍から米国籍に変わるためいったん離日しましたが、第二次世界大戦が始まって来日出来なくなったことはよく知られています。この間、全米を講演して回り、梅光のための寄付金を集めています。
1947年(昭和22年)再来日すると、翌48年(23年)から梅光で教鞭をとり、廣津藤吉の後を受けて第4代院長に就任します。1953年(昭和28年)には、梅光女学院附属幼稚園の初代園長にもなりました。
1958年(昭和33年)定年退職し、帰米。以後も長く梅光の精神的支えとして慕われました。2000年(平成12年)7月6日、ロスアンゼルス市の引退宣教師老人ホームで没、享年106でした。
同じ年同じ月のわずか2日前に、太平洋を隔てて広津信二郎先生が亡くなられたのは、梅光の戦後が終わったこと、20世紀の終焉を感じさせる悲しい出来事でした。
讃美歌512番「わが魂の慕いまつるイェス君の麗しさよ」は、マッケンジーが帰米する際に、下関駅頭で教え子たちによって歌われたものです。美しい旋律に寄せて先生を偲ぶことに致しましょう。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
卒業生の記憶にある「梅光の母」は誰でしょう。
今回から、それぞれに母と慕われた、女性の先生方をご紹介します。
写真1. 講堂
初代の講堂は1925年(大正14年)に建設されました。建設に当たっては、米国北長老派教会の慈善家として知られたマーガレット・オリヴィア・セージ(1828-1918)からの5万円が使われました。セージ夫人が1907年に創設したラッセル・セージ財団は、ロックフェラー財団やカーネギー財団と並ぶ財団として、アメリカの社会政策研究活動を今も展開しています。
この資金を得る時には、ビゲローの活躍がありました。
写真2. ビゲロー
ガートルード・サラ・ビゲローは、1860年(万延1年)5月17日、米国ニューヨーク州バタヴィア生まれ。ハミルトン・レディス・セミナリーを卒業後、教職に就いていましたが、日本伝道の宣教師に呼び掛けられて、来日を決意します。1887年(明治20年)東京の新栄女学校(後の女子学院)に長老派の教育宣教師として着任。北陸女学校を経て、1892年(明治25年)、光城女学院に着任。服部章蔵とジェームス・B・エーレスを補佐して英語、倫理、唱歌、体操を教え、1899年(明治32年)光城の第2代院長になります。
黒木五郎の『梅光女学院史』には、「多年学院の理事者として其の維持団体たる伝道局と学院との意思の疎通を計りしのみでなく在任中四回帰国の際は、各地に遊説し、日米親善の気風喚起に貢献せられた。/梅光建設費の内ジョンスチウアト、ケネデー氏の寄附金三萬五千弗/梅光講堂の建設費マアガレット、オリヴァセエジ夫人の寄附金約五萬円/などの贈らるゝに至ったのは、先生の此の方面の貢献が認められたのが主な原因であった。」とあり、その熱心な教育者ぶりが想像できます。
梅香崎と合同するとき、ビゲローは光城の院長から一介の教師として梅光に来る決断をします。設置認可を得るにあたって、外国人女性が梅光の院長になることは難しかったのです。
1927年(昭和2年)日米友好の「青い目の人形」の山口県贈呈式はビゲローによって行われました。1930年(昭和5年)丸山敷地内に「祈りの家」を寄贈して帰米します。1941年(昭和16年)11月1日、カリフォルニア州ロサンゼルスで没。享年81でした。
ビゲローは厳格な人でしたが、彼女の薫陶によって清廉な光城生・梅光生が育ったとも言えます。経済的困難の生徒や地域の罹災者へ、私財を惜しまず支援する人でもありました。
光城時代の教え子に、後に女子学院の院長となる弘中つち(山本つち)がいます。ビゲローの支援によってアメリカ留学したつちは『少女パレアナ』の翻訳家として有名です。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
写真1.校内松林
以前ご紹介した、マツタケも採れた松林の中に立つ和服の先生が藤山一雄です。
100年記念で作成した戦前の校舎の絵葉書を収めたケースは、1923年(大正12年)に藤山が下関梅光女学院初の卒業アルバムとしてデザインした表紙を再現したものでした。
藤山一雄は1889年(明治22年)4月16日、玖珂郡神代村平原(現・岩国市由宇町)に生まれ、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業しました。
1921年(大正10年)廣津藤吉に誘われて下関梅光女学院の地理科教諭に就任します。藤吉の後を受ける第2代学院長の候補に推薦された人物であることは、あまり知られていませんが、優秀な人物だったことが分かります。
1926年(大正15年)梅光を退職して大陸に渡り、南満州鉄道、大連市女子人文学院講師などを経て、1939年(昭和14年)から満州国国立中央博物館副館長に就任しています。当時には珍しい野外展示の発想など、博物館活動の先駆的人物として、現在でも高く評価されています。
1945年(昭和20年)由宇町に帰郷した後は、山口県の農村新生運動の推進に携わり、晩年まで県の産業の発展に力を注ぎました。
1951年(昭和26年)、梅光女学院出版局から、廣津藤吉の初の伝記『廣津先生の生涯』を出版しています。
1975年(昭和50年)4月10日、由宇町にて没。享年85でした。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
今回は校歌とかかわりの深い先生です。
写真1. 黒木五郎
黒木五郎は1871年(明治4年)3月15日、豊後臼杵の生まれです。幼少期から漢文を学び、1891年(明治21年)大分尋常師範学校を卒業後、大分県下小学校の教師となり、校長職も務めた教師一筋の人物です。教職に就きながらも間も漢文と仏典を学び続けたと聞きます。古典の教養豊かな人だったのでしょう
1903年(明治36年)、廣津藤吉に請われて梅香崎女学校に奉職。1910年(明治43年)頃、長崎教会で受洗、熱心な教育者であると同時に熱心なキリスト者となりました。藤吉とは同い年、お互いにうまが合ったようです。
1914年(大正3年)下関に梅光が誕生するに当たって、廣津藤吉と共に生徒を連れて長崎から移動し、新設校の整備と運営の中心者として活躍しました。
黒木五郎の大きな功績が2つあります。
一つ目は1915年(大正4年)、下関梅光女学院校歌を作詞します。曲はジェーン・M・ノードフ(1882-1970)が提供したとされていますが、彼女の作曲なのか、何か原曲があるのか、今でも分かりません。
作詞に当たって黒木が最初に着想した「我らの母校は山の上の城」の部分はマタイ伝5章13節―14節から採られたと思われます。
「爾曹ハ地の鹽なり鹽もし其味を失はゞ何を以か故の味に復さん。後は用なし外に棄てられて人に踐まるゝ而己。爾曹ハ世の光なし山の上に建てられたる城は隠ることを得ず」(新約全書.米国聖書会社.横浜,1881・明治14 p.9-10)
校歌は現在も変わることなく歌い継がれて、2015年には校歌100年を迎えます。
二つ目は『梅光女学院史』(1934)を刊行したことです。合同当時の生き証人として、黒木の記述は、初期の学院を知ることが出来る一級資料です。
中高短大の事務所で長く務められた黒木正一(1912-1995)・恵美(梅22)夫妻は五郎の養嗣子にあたります。
1936年(昭和11年)5月3日、下関で没。享年66でした。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
2014年(平成26年)6月21日、東京支部総会でご紹介した写真の3回目、梅光を代表する先生です。
写真1. 初代院長廣津藤吉
廣津藤吉は、1871年(明治4年)3月13日、豊前中津の士族の家に生れました。1888年(明治21年)、受洗。当時、大分師範学校に在学していましたが、キリスト者であることを理由に招魂社(護国神社)参拝を拒否したことが問題となり、退学させられます。師範学校校長鎌田栄吉に、今後はキリスト者として生きろと励まされて、1889年(明治22年)長崎東山学院に入学します。中津の先輩坂文一(生没年未詳)に勧められて長崎に行きましたが、このとき、大分の宣教師S.H.ウェンライト(1863-1950)のアドバイスに従っていれば、同志社に進んで新島襄の教え子になっていたかもしれません。
東山学院の神学部を卒業した藤吉は、1887年(明治20年)に出来た梅香崎女学校の教員になり、1901年(明治34年)には齋藤實徳の後を継いで第3代の校長になります。
1914年(大正3年)下関梅光女学院創立院長に任命され、大正、昭和前期、戦中、戦後の長きにわたって、生涯を梅光における教育の発展に捧げたことは、皆様ご存じのとおりです。
女婿にあたる第2代福田八十楠と第5代広津信二郎が、さらに梅光を支え発展させてきました。
藤吉は多才な人物で、1916年(大正5年)下関に火山があったことを火山弾の発見により明らかにし、1924年(大正13年)校内に天体望遠鏡を備え、1925年(大正14年)にはラジオアンテナの設置、1927年(昭和2年)には学内に映写設備を講堂に設置するなど、教育設備の拡充に熱心でした。1929年(昭和4年)には温室を建造し、牧野富太郎と共に植物採集に出掛ける博物学者としての顔も持っています。
1960年(昭和35年)1月10日、下関で没。1月18日、丸山講堂で学院葬。享年88でした。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
この連載で皆様にお見せしているのは、2013年10月2日(水)~7日(月)まで下関大丸の7階で開催した「梅光100年のあゆみ」写真展で展示した写真です。
卒業生や在学生だけでなく、地域の方々がたくさん見に来て下さいました。地域に歴史を公開することで、梅光が下関に100年過ごさせていただいた感謝の一端をお届けできたのではないかと思います。
焼ける前の梅光はどんな学校だったのか、1923年(大正12年)に作られた最初の卒業アルバムから、当時の風景を見てみましょう。
写真1.物理館
写真2.宣教師館
物理館は物理教室が入っていたところからその名で呼ばれました。
宣教師館は文字通り宣教師の住居でした。本館と並んで、高い所に西洋館が立ち並ぶ風景は、細江から見上げるとさぞ目立ったことでしょう。
写真3.校内松林
松林の写真、洋服姿が廣津藤吉(1871-1960)、和服姿は藤山一雄(1889-1975)です。
この二人については、後の回でお話ししましょう。当時、丸山の上にはこんな松林があって、生徒や先生方の散策路、憩いの場所にもなっていました。一角にはベビーゴルフ場も作られていました。季節にはマツタケも採れたそうです。
写真4. 雨天体操場とテニスコート
雨天体操場は本館から山側に渡り廊下で繋がって建てられた建物でした。テニスコートの女学生が和服姿のところが、いかにも時代を感じさせますね。
写真5. 卒業式記念写真
大正12年の卒業生たちです。袴姿です、まだセーラー服ではありません。2列目の左寄りに写る白い服はおそらくチマチョゴリ、当時、半島と距離の近い下関には外地からの生徒が来ていた事が分かります。
写真6. 教職員
当時の先生方です。全員のお名前が分かると良いのですが、残念ながら分かっている先生は僅かですが、廣津藤吉、藤山一雄はお分かりですね。藤吉の横でフロックコートを着ているのが『梅光女学院史』を書いた黒木五郎(1871-1936)です。
開学当時に近い風景、楽しんでいただけたでしょうか。
次回から何回かにわたって、先生方をご紹介しましょう。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美
何回かの連載で皆様に梅光の歴史をお話します、学院資料管理委員長の湯浅と申します。 (写真:梅光学院大学HPより)
これは2014年(平成26年)6月21日、東京支部総会で話させていただいた内容を少し詳しくしたもので、当日ご都合で総会に出席なされなかった皆様にも楽しんでいただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
写真1.ケネデー館
この建物は1914年(大正3年)に建てられた旧本館、ケネデー館です。木造2階建の西洋館。
この名称は、寄贈者のジョン・スチュアート・ケネディ(1830-1909)から取られています。ケネディはスコットランドからアメリカに渡り、鉄道と銀行で財をなした人物でモーガンやロックフェラーと並ぶ大富豪でしたが、子どもがいなかったため、遺産はメトロポリタン美術館、コロンビア大学などに贈られ、さらに米国北長老派教会の伝道局に贈られ、海外伝道の資金になりました。その中から3万5千ドルが山口の光城女学院に届いて、下関梅光女学院を生むきっかけとなりました。当時の円ドル相場では約7万円になるようです。
光城女学院の理事だったジェームス・B・エーレス(1859-1940)がこの寄付金を使って下関に新しく合同校を作ることを、長崎の梅香崎女学校のウィルス・G・ホキエ(1883-1949)に働きかけ、それが実現して梅光が生まれました。エーレスは梅光の直接的な生みの親、初代設立者として、また2代理事長として、覚えていただきたい人です。
写真に写るケネディ館は1945年(昭和20年)7月2日の下関大空襲で焼失しました。現在の本館が建ったのは1951年(昭和26年)4月のことです。旧本館と同じ位置に再建され、建物の前に写っている石段は今も同じところにあります。100年の歩みを足元から眺めている石段です。
石段の横には、2014年6月5日、「梅光の先達たち」と題した顕彰碑が建ちました。ヘンリー・スタウト、服部章蔵、廣津藤吉、バージニア・M・マッケンジー、広津信二郎の5人の写真と略歴を刻んだものです。下関にお帰りの節は、丸山町にお足を運んで見に来て下さると嬉しいです。
今の本館も老朽化が進んでいます。これから先も長く後世に残していくか、あるいは新しく建てなおしていくか、皆様のお知恵をお借りしたいと思っています。
お目に懸けているのは、1930年(昭和5年)に作成された梅光女学院の絵葉書の画像です。廣津藤吉が作成した学校グッズ絵葉書の一つです。この絵葉書を含む絵葉書セット(9枚)を作りました。1セット1,000円です。セットのケースは卒業アルバム第1号表紙(藤山一雄デザイン)を再現したものです。
購入御希望の方は、梅光学院学院資料室(℡ 083-227-1037)にお問い合わせください。
大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)