梅光学院高等学校同窓会
2015年01月27日

梅光100年の歩み 第10回 「戦災と福田八十楠」

梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美

 

写真1. 大畠校舎、記念館

83.1949(昭和24年)大畠校舎 記念館
1945年(昭和20年)7月2日早朝、梅光女学院は空襲によって校舎のほとんどを焼失しました。
この写真は焼け残った校門と、廣津記念館(1941・昭和16年竣工)です。他に残ったのは廣津藤吉邸(2000年9月29日解体)とビゲローが残した祈りの家(移築して現存)だけでした。

 

授業をするために、近くの丸山教会とカトリック教会を貸してもらい、さらに日和山公園に建っていたバラックを借りました。現在、大学が建っている大畠校地(現・東駅キャンパス)もその時に使わせてもらうことになった土地です。
写真中央にあるのは大畠校地にあった旧下関重砲連隊の倉庫です。

 

写真2. 大畠校舎 礼拝風景

84.1949(昭和24年)大畠校舎 礼拝風景

 

大畠の校舎には電燈もなく、窓ガラスも盗まれてしまっていました。この写真はそのような不自由な中でも行われていた礼拝。生徒たちはおそらく床に直接座っています。画面奥のオルガンの後ろに整然と並ぶ四角い枠が見えますが、これはガラスがなくなってしまった窓です。そこに木の板をはめ、中央を十字に切って明り採りにしていたことが分かります。

 

1946年(昭和21年)、仮校舎を建てるため、この建物と日和山の建物を解体し、使える木材を教員と生徒たちとが協力して丸山町に運びました。このことを覚えておられる卒業生がまだいらっしゃいます。その方たちのご苦労が、今の梅光の礎となったことに感謝したいと思います。

 

敷地内には、高射砲を備え付けるための大きな穴も残っていました。生徒たちはそこに出入りして遊んだそうです。

 

写真3. 福田八十楠

_14_福田八十楠(2代目院長)

 

戦後の復興を最初に担ったのは、第2代院長福田八十楠です。
福田八十楠は1895年(明治28年)4月8日、和歌山市に生まれます。広津信二郎は八十楠の甥にあたります。

 

八十楠は2人の兄がキリスト者であったため、影響を受けて受洗。1916年(大正5年)東北帝国大学予科を卒業し北海道帝国大学農学部に進み、1919年(大正8年)に卒業します。北海道時代は札幌バンドとの交流もあり、甥信二郎は小学校の時に八十楠の指導を受けています。さらに1922年(大正11年)東京帝国大学理学部を卒業し、この年11月、満州医科大学予科教授となります。満州時代に、廣津藤吉の長女君と結婚して、廣津家との交流が始まります。
1933年(昭和8年)から2年間、ドイツのミュンスター大学に留学し「植物水度論」をグスタフ・フィッシャー書店から出版するなど、科学者としての道を進みました。1940年(昭和15年)北京大学理学院生物学科系主任教授になります。

 

1945年(昭和20年)3月、岳父廣津藤吉の依頼を受けて院長職を受ける決意をし、北京大学を辞任します。6月30日、梅光女学院着任。そして7月2日の下関空襲で梅光は罹災したのです。
院長着任後3日目に受けた学院存亡の危機に、ひるむことなく対策の手を打ち続けた福田は、戦後の梅光を立ち直らせた第一人者と言えるでしょう。

 

大畠の旧重砲連隊の土地を借りる手立てをつけたのも福田でした。後にこの土地を買い受けて幼稚園、中学校校舎、中学校校長宅(佐藤泰正住居)、中学校教頭宅(村上省三住居)が建ち、さらに短期大学が建ち、現在は大学があります。
東駅キャンパスは、福田によって道を開かれた場所なのです。

 

1946年(昭和21年)復興の道筋を整備した福田は辞任し、再び廣津藤吉が院長になります。以後、福田は広島文理大学(現・広島大学)の教授になり、梅光女学院短期大学の開校のときには教授の一人に名を連ねました。梅光女学院大学教授も歴任します。
1970年(昭和45年)11月4日、東京で没。享年75でした。

 

 

大日06/院前日01/大学文学部准教授 湯浅直美(旧姓 池谷)

 

梅光100年の歩み(連載)

    サイト内検索