梅光学院高等学校同窓会
2016年02月01日

服部章蔵と「光の子」

皆様、新しい年をお元気にお迎えのこととお慶び申し上げます。

 

今から100年前の1916年(大正5年)1月30日、梅光の前身校の一つである光城女学院の創始者、服部章蔵が亡くなりました。つまり、今年は服部章蔵没後100年にあたります。
今回は皆様に服部章蔵についてご紹介し、あわせて梅光のスクールモットーである「光の子…」のお話を致しましょう。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA服部章蔵

 

梅光学院の校章にスクールモットー「Ut filii lucis ambulate」の文字を採用したのは1964年(昭和39年)、短大創設の時です。採用したのが誰かということは、記録上に見つからないため判りませんが、当時の院長であり短大学長も兼ねておられた広津信二郎とその周囲に居られた方たちがこの文言を選んだのは間違いありません。

 

ロゴ3Ut filii lucis ambulate

 

この語の出典は新約聖書エフェソ人への手紙第5章ですが、宣教師から与えられた言葉であるとは考えにくいところがあります。なぜなら、「Ut filii lucis ambulate」の前にある言葉は「ratis enim aliquando tenebrae nunc autem lux in Domino」で、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」(口語訳聖書による)だからです。
明治という時代が外発的に揺れ動かされて変革を迫られた時代であるからといっても、宣教師たちがもし、いわゆる〝上から目線〟で「今までの日本は闇だったから、これからは自分たちの言うことを聞け」と言ったとして、それを無条件に受け入れることができるでしょうか? 歴史と伝統のある日本で、そう簡単に以前のすべてを否定することはできないはずです。
「Ut filii lucis ambulate」は、キリスト教に出会う以前の自己を「やみ」と認識できた人から生れた内発的な言葉でなければ、校是としての価値はありません。

 

その人物として、最も可能性があるのは服部章蔵です。
『服部章蔵の生涯:明治期のプロテスタント史を支えたひとりの伝道者』(日本基督教団山口教会.1998,265p)の自伝部分に、以下の記述があります。

 

「章蔵の性たる傲邁不遜、少時より童蒙と争闘するを好み常に腰に帯る所の木刀を以て戦ふ。漸く長ずるに及び、乃父より授かる所の鈍刀を帯び戦に臨み、急迫する時は抜刀以て童蒙の敵軍に突貫し、或る時は一童の臂を斬りしことあり。或は童蒙の隊を率いて寺院を襲ひ、姦僧を捕縛し、之を河橋の足木に縛し、高札を其背に負はせ其罪をしらせり。/ 或は君主より下賜せられたる犬の首を斬り之を竹尖に貫き路傍に樹つる等、暴行至らざるなし。時人余を呼びて見懸に由らぬ悪る者大将哉と称したり。(中略)明治の世に至り、大刀廃止の禁令出るや常に鉄鞭を提げ東京市街を横行し身に觸るヽ者あれば直ちに之を鞭で争闘を始めたり。以上の如き粗暴の者たれば、其他人倫に逆ふこと枚挙に遑あらざるなり。又言ふに忍ばざるなり。内乱の際の如き、敵が乃父と従兄を捕へて幽囚し、斬に処せんとしを慷慨し、憤怒の情に堪へず、敵時一の敵将を銃殺し得たれば、其腹を割き、臓腑を引出し之を松樹の枝に懸け膽を脱て鍋に炊き、兵士に食を命ぜしことありき。」(同書 p.9)

 

この服部の行動のいくつかは、『吉敷村史』(三坂圭治編 / 復刻版.マツノ書店.1988,373p )にも同様の記述があるので確認できます。
1863年(文久3年)、服部哲次郎(後に名和緩と改名)が組織した宣徳隊の行動の中に、「同士相謀って邑主の愛犬を引出し、その首を刎ねて制札と共に圓正寺の門前に建てた。」「龍藏寺の法印と長樂寺の和尚とが、主家の扶持を食みつゝ僧侶にあるまじき不正の行ひあるを憎み、両僧を縛して一般の戒めとなさんとした」(同書p.148)
等です。

 

「京摂の間に横行連戦し、或は内乱に際し正党に與し、御楯隊に入り司令官となり、山田・品川等と共に雨雪の中に身を露らし、炎天下に身を焼き、或るは幕府の軍と安芸に戦い、或るは京都の潜伏連に加はり、斬奸に従軍し、佐久間象山を殺し、徳川氏の威権を落す事に勤むるの如き、枚挙に遑あらず。是の如く乱暴狼藉の生涯を送り、之に粗々鍛錬する所あるを以て、十七歳の時小隊の司令官となり、暫くして中隊司令官に転任し、之を率いて敵と屡戦を交へ、明治元年革命大戦争に至る。」(同書 p.1-2)

 

十代の服部章蔵は内乱の世を生き、1869年(明治2年)に21歳で上京し、開成校や慶應義塾で英語を学び、新しい世を生きようとします。その時、彼は維新以前の若い日の自分を次のように回顧しています。

 

「此の如き生涯を送るの際、毫も良心の責なかりしやと問ふ者あらん。予之に答へて後悔先に立たずの諺の如く常に良心の責を受け、切々悔悟を命ず。是故に何の法に由てか之を成すを得んと或は静座し、或は良知良能を求めたり。然と雖一も得る所なく、益々経書を研すれば愈々心切迫して、身の置く所を知らず。是故に一時の患を免れんが為に酒を置き豪飲酔倒して止むこと屡なりき。」(同書 p.9-10)

 

戦争による心的外傷という言葉が、今日ならあてはめられるでしょう。蛤御門の変では久坂玄瑞等と行動を共にし、多くの若者が斃れるのを目にし、さらに山口県内で何度も激戦を潜って生き延びた自分です。良心の呵責から逃れようと、四書五経などを読んでみても更に心が潰れるようで、飲酒に逃げていた。アルコール依存症に陥っていたかもしれません。これは自身が「やみ」であったことを認めた記述でもあります。そして、キリスト教に出会い、新栄教会のタムソンから洗礼を受けようとし、一度は試験に落ち、そこで回心を得ます。

 

「何者が予に勧めたりしや、毫も解すること能はざりしが、突然祈祷の念を生ず。即ち、妻と共に伏して祈を初めたるに、祈の中、我が心に向きて誰かありて、爾の落第は即ち斯の如く憤激し、人を怨むるの罪を犯す程信仰薄きに基くなりと曰へるが如き感動起り、覚へず「我が神よ、我が救主よ、我が此の大罪を許し給へ」と祈りたれば、心の怒は全く去り」(同書 p.17)

 

許されて洗礼を受けた時の感動は、

 

「予が廿九年の経歴は真に暗黒の生涯なりしと雖も、長くより求めて得ざりし平安の心は今日全く我が衷に住し、一点の浮雲だにあるを覚へず。」(同書 p.18)

 

というものでした。これこそ服部が「やみ」から「主にあって光」となった瞬間です。「光」に出会った回心体験は、後の赤間關光鹽英学校、光城女学院、また明星幼稚園という命名に読み取れます。すべて光と関係している名前になっています。

 

「爾曹ハ世の光なり山の上に建てられたる城は隱ることを得ず燈を燃して斗の下におく者なし燭臺に置で家に在すべての物を照らさん此の如く人々の前に爾曹の光を燿かせ然れば人々なんぢらの善行を見て天に在す爾曹の父を榮べし」(1887年明治訳 馬太傳5章)

 

馬太傳5章1887年明治訳 馬太傳5章

 

光鹽と光城の言葉はマタイによる福音書5章から採られています。
幕末動乱期の同胞相食む激烈な時代を通り抜けたひとりの人が、「光」に出会ったことに感謝して、その「光」を若い人たちに分け与えようとしました。
吉敷の郷校憲章館の優れた教育者であった曾祖父、祖父、父の血を受けて、東京で海軍兵学校の英語教官を務め、その教え子たちと長く交流があった服部です。その目指すところは、新しい良き日本の女性を育てることでした。

 

夜、灯を升の中に仕舞って、家の中を手探りで生活することはありません。家中を照らし、日々の生活の支えとなる存在であれ。また世にあっては四方のどこからでも見える山の上の城のように、周囲を照らし、人々から仰がれる存在であれ。その「光」とは「善行」です。
「光の子」とは、自ら善き行いを実行する意志と行動力を持った人のことです。日々、自己のあり方を問い続け、善き人であろうと努力し続ける人のことです。

 

1914年(大正3年)の下関梅光女学院の創立の時、服部章蔵は存命中ではありましたが、既に学校経営から退いていて、直接の関係はありませんでした。ちなみに梅香崎女学校のヘンリー・スタウトは既に死亡しています。
下関梅光女学院の実質の創立者であり初代理事長だったのは、光城女学院のジェームス・B・エーレス(1859-1940エアレスとも表記)です。彼の発想と決断と実行力がなかったら、梅光はこの世に生まれていません。服部章蔵と共に山口で働き、光城女学院を託されて長老派教会の出資校とし、梅香崎と合同の際の資金源を確保したのはエーレス、そしてビゲローでした。

 

ガートルード・サラ・ビゲロー(1860-1941)は、下関梅光女学院となったときに、光城女学院の校長から一介の教員となって廣津藤吉の下で働き、「光城並に梅光の校母」と呼ばれた女性です。

 

_05_ビゲロー画像ガートルード・サラ・ビゲロー

 

校母ビゲローとはどんな人だったのでしょう。

 

「性質、素行、功績、先生は温厚篤實にして寡言、日本婦人的の嗜は自然に長い在留中に薫染し、クリスチャンレデーの品格を一段と立派ならしめ、女子敎育家としてはた宗敎家として申分なしとは、内外人にみとめられてゐた。/明治十九年二十七歳にして故國を辭した時から、全く婚嫁の念を斷ち、只日本の女子敎育に貢獻せむことをこゝろざし、四十四年の永い間、身も心も傾けつくし、倦むことを知らなかつた。/單に聖書や英語を敎授したばかりでなく、或は校長の職に於て、或は舎監の任に於て、各おかれた地位に本分を盡し、むしろ隅の置石たらむことを心がけられた。光城梅光の生徒等が、時代の惡風に浸むことの少かつたのは先生のお蔭によることが多かつた。」(梅光女学院史 / 黒木五郎著.1972縮刷版.502p. 同書p.227)

 

「多年學院の理事者として其維持團體たる傳道局と學院との意志の疎通を計りしのみでなく在任中四回歸國の際は、各地に遊説し、日米親善の氣風喚起に貢獻せられた。/梅光建築費の内ジヨンスチウアト、ケネデー氏の寄附金三萬五千弗/梅光講堂の建築費マアガレツト、オリヴアセエヂ夫人の寄附金約五萬圓/などの贈らるゝに至つたのは、先生の此の方面の貢獻が認められたのが主な原因であつた。」(同書p.227―228)

 

服部の「光」を継承したとすれば、この二人のうちどちらか、特にビゲローの可能性が大きいと思われます。エーレスは1916年(大正5年)には梅光を退いているからです。服部章蔵の意思は、梅光を作った先人たちに受け継がれ、今日まで続いているのです。

 

さて、邦訳聖書の語句は時代によって異なっています。
2016年(平成28年)現在、梅光のスクールモットーになっている「光の子として歩みなさい」は、どの日本語訳聖書からのものでしょうか。

 

RIMG0032丸山校舎校門「光の子として歩みなさい」

 

1887年(明治20年)明治訳「光の子(こ)輩(ども)の如く行ふべし」
1917年(大正6年)大正改訳「光の子供のごとく歩め」
1955年(昭和30年)口語訳「光の子らしく歩きなさい」
1978年(昭和53年)新共同訳「光の子として歩みなさい」

 

つまり、今使われている「光の子として歩みなさい」は新共同訳の文言で、実は、短大設立時にはまだこの世に存在していない翻訳です。スクールモットーが校章に採用された当初はラテン語のみだったのです。

 

一方で、「Ut filii lucis ambulate」のイメージは短大創設以前から存在していて、最近できたものではないことは、同窓生の証言から明らかです。
『梅光女学院遠望』(梅光女学院同窓会編.1987,319p)所収の、畔津和江(1939・昭14卒・梅25)の文「思い出」の中に、

 

梅光女学院遠望

 

「宗教の時間には、梅光精神の「神は愛なり」、「愛は絶えることなし」、「光の子らしく歩みなさい」と教えられました。」(同書p.299)

 

とあり、戦前から語られていたことが分かります。ただし、畔津が引用する語句はすべて聖書そのままの言葉ではありません。「神は愛なり」は三谷種吉 の『基督教福音唱歌:伝道会聖別会日曜学校用』(教文館.1900)13番「神は愛なり」(現讃美歌2編184番)からでしょう。この語は初代の院長廣津藤吉が揮毫の際に「信望愛」と並んでよく書いていたものです。「愛は絶えることなし」はコリント人への第一の手紙13章を元にしていますが、正確な引用ではありません。「光の子らしく歩みなさい」も口語訳と新共同訳が入り混じっている言葉です。とはいえ、戦前から「Ut filii lucis ambulate」が意識されていたのは間違いないという点で、この畔津の文章は大切な傍証になります。

 

RIMG0096

 丸山校舎講堂「愛はいつまでも絶ゆることなし」

 

現在の日本語のモットーが強調されるようになったのは1978年(昭和53年)以降でしょう。ラテン語から日本語の文言に移行するにあたって、広津信二郎がどの程度関与していたかは不明です。この時には学院長と幼稚園長を兼ねておられました。
広津信二郎が短大の卒業アルバムに残した聖書語句の引用を調べてみると、1968年(昭和43年)から1975年(昭和50年)までは詩篇27編から「主はわが光」、1978年(昭和53年)には「信望愛」。2つとも聖書を元にしつつ、聖書そのままの引用ではありません。

 

_15_広津信二郎(第5代目院長)
また広津を継いで学長となった佐藤泰正は1978年(昭和53年)にヨハネ第1の手紙5章「若子(わくご)よ、自ら守りて偶像に遠ざかれ」を引用しています。この語句は大正改訳によるものです。1989年(平成1年)からは詩篇126編「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるだろう」が短大閉学時まで続きます。これは口語訳からの引用で、新共同訳発行以後ですが、新共同訳の語句は採用していません。

 

_16_佐藤泰正 1968(昭和43年)卒業アルバム
そして、広津、佐藤両名とも光の子云々の文言をアルバムに残したことはありません。

 

以上のように見てくると、「光の子として歩みなさい」をスクールモットーとして前面に打ち出すようになったのは、平成に入ってからの院長と学長、すなわち峠口新、中野新治の時代になってからでしょう。
梅光の起源をより古い長崎時代に求めることが多い中で、「Ut filii lucis ambulate」の言葉を採用したのには、服部章蔵の存在、そして大いなる功労者ビゲローを忘れることがないようにという短大創立当時の意図が込められているのでしょう。
短大創立は、梅光が高等教育機関として第一歩を踏み出した、画期的な出来事でした。新たなる覚悟をもって先人たちの後を継ぎ、前進する。広津の心意気が感じられるようです。

 

日々の自分を振り返り、善き人であることを常に目指しなさい。「Ut filii lucis ambulate」
これはいつの時代にも私達が大切にするべき言葉ですね。

 

さて、私、湯浅は2016年(平成28年)3月をもって、梅光学院を辞することになりました。今日までの皆様のご厚情に感謝すると共に、これからも梅光同窓生の皆様の、ますますのご健勝をお祈り申し上げます。ごきげんよう。

 

 

2016年1月21日
梅光学院大学 学院資料管理委員長 湯浅直美(大6日)

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