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~「感動した」という声を頂くたびに演奏家としての幸せと生き甲斐を感じます~
梅光女学院高等学校音楽科第1期生(高27音)の田村照代(旧姓 間世田)さんは、洗足学園音楽大学ピアノ科を卒業され、現在はピアノ講師を続ける一方、インダ プトゥリ( “竹が奏でるクラシック” を創造する世界で唯一のアンクルン・アンサンブル)においてプロのアンクルン奏者、ピアノ伴奏者、編曲者として活躍しておられます。
アンクルンはインドネシアの竹製の伝統楽器で、手で細かく震わせて音を出します。1本が1音なので通常はハンドベルのように複数の奏者がそれぞれ何本かを手に持って演奏しますが、インダ プトゥリは、3台の演奏台に合計100本近くのアンクルンを鍵盤楽器のように並べて吊り下げ、3人がそれぞれ高音部・中音声・低音部を担当することによってオーケストラにも匹敵する重厚な音楽性を創造しておられます。また、演奏者自らが選曲とアレンジを行うため、その演奏はアンクルンの可能性を極限まで広げた独創性に富むもので、その演奏形態と芸術性は他に類を見ません。
第1回の「活躍する同窓生」は、田村さんのユニークな音楽活動や梅光時代についてのお話を伺いました。
アンクルンとの出会いと現在の活動
アンクルンとの出会いは、ピアノのレッスン活動セミナーで出会った仲間で作ったサークルでした。メンバーの一人がアンクルンを持っており、当初は4人で活動していましたが、その後3人に定着し今年で結成12周年を迎えました。結成間もない頃の活動範囲は地元に限られていましたが、演奏の幅を広げるうちに次第に多方面から演奏の依頼が舞い込むようになり、気付いたら “プロのアンクルン奏者“ という立場になっていました。正に竹に導かれながらやってきた結果といった感じです。
活動や演奏はNHKテレビや日経新聞の文化欄、また朝日新聞の天声人語にも取り上げて頂きました。更に在日本インドネシア大使館からは感謝状を頂き、私達の公演は“インドネシア大使館推奨コンサート”という一文がつくようにもなりました。そうした諸々の出来事は私達の活動の大きな支えとなりました。
インダ プトゥリは演奏会の他にもいろいろな活動を行っています。1つは施設訪問ボランティアで、もう10年以上になります。障害を持つ方々にとって音楽療法が効果的であることは医学的にも実証されていますが、実際に、認知症や手足が不自由な方々が、手にしたアンクルンを巧みに演奏されたり楽しげに歌われる姿は本当に感動的です。
もう1つは国際交流です。バリ島のジェゴグを発掘したグループ “スアールアグン” とは交流関係にあり度々共演している他、各国のイベントにも積極的に参加し、国境を越えて友好を深めようとする方々の架け橋になっています。
こうした様々な活動の場を与えられたことによって、聴かれた方から「感動した」「元気が出た」等々の感想を頂く度に、逆に私達が生きる力を頂いています。誰でも誰かの心の支えになったり、感動を共有し合えるはずですが、私の場合、その媒体の一つがアンクルンになりました。ピアノしか知らなかった頃は、音楽から受ける感動は自分の中だけでしたが、今は、私達の演奏を聴いて「感動した」という声を頂くたびに演奏家としての幸せと生き甲斐を感じます。
梅光との出会い
中学2年の時に東京から下関に転校した私は、梅光という学校があることすら知らず、ましてや音楽専門の学校など下関では選択範囲にはありませんでした。ですから当然地元の公立高校に進むものであろうと5歳から続けていたピアノを一旦中断。ところが、そろそろ志望校を絞らなければ・・・という頃に
『梅光という私立の学校に音楽科が新設されることになった。受けたらどうか』
という話が舞い込み、状況は一転。急遽梅光の音楽科受験体制に路線変更となりました。
努力の甲斐あって無事に合格!
「音楽科なんだから音楽の授業がいっぱいあって楽しそう!!」
「ミッションスクールっていうのも何だかステキ~~」
という気分で私の新学期はスタートしました。
その期待を裏切ることなく梅光での日々は充実したものでした。それまでピアノを学び続ける過程は孤独なものでしたが、入学後は周りに同じ志の仲間が沢山いてとても楽しく、また刺激にもなりました。もしこの年に梅光に音楽科が開設されなかったら、恐らく演奏家としての今の私はなかったことでしょう。私の人生の方向を間違いなく決定づけた大きな転換期でした。
梅光時代は音楽だけではなく、キリスト教に接することができた実に貴重な時期でした。聖書も讃美歌もチャペルでのお祈りも知らずに育ってきた私にとって、それら全てが新鮮で、しかもごく自然に私の中に入り込んできてくれました。後々学ぶことになった音楽史の “キリスト教の西洋音楽への影響” を考えても、梅光生になれたことは本当に有難いことでした。初めて手にした聖書と讃美歌に、刺繍入りの手作りのカバーを作ったのも良い思い出。今もそのままの状態でとってあります。
思い出といえば、セーラー服のリボンをいかに綺麗に結ぶか研究しましたね。リボンの結び方も時代によって変化があるようですが、私達の頃は襟の合わせ目に結び目があるのが原則で、下の方で結んだり、襟の下でリボンを詰めて短くするのは校則違反でした。
残念ながら卒業を待たずにまた転校することになってしまい、私の在学期間はたったの1年でした。しかし多感な時期だったこともあり、その1年間は実に印象深く忘れる事の出来ない日々となりました。
今でも年に1,2回は東京にいる同期との食事会に参加させて頂いています。平成22年度の支部総会では当番学年としてチャペルチャントと讃美歌の伴奏を努め、梅光を懐かしく思い出しました。また30余年振りに「光の子らしく歩みなさい」という言葉にも触れ、思いを新たにしたひと時でした。
現在は横浜在住ですのでなかなか下関を訪れる事はできませんが、梅光生であった事は私の誇りであり喜びでもあります。そして校舎までの緩やかなカーブを描く上り坂を想う時、梅光にますますの栄光あれと願うのです。
高27音 田村照代(旧姓 間世田)
◯◯インダ プトゥリの公式ホームページ : http://www.juno.dti.ne.jp/~assm/
◯◯♪ 「瀬谷の四季」 コンサートのライブ録音(2011年4月9日) YouTube
※田村さんは2012年4月21日【~春のアンクルンコンサート~】に出演されます。